なんか最近愚痴ばっかで全然知識系の記事書いてないので久々に頭の中から引っ張り出して来ようと思う。
3月24日ってもう1か月以上経ってるやん。
クソクラエじゃ。
で、頭の中から存在自体が抹消されていたこの記事の続きがどうして書かれなかったのかというとですね、それは単純に記事のリライトなんて作業をしてないからなんです。SEOとやらには絶対リライトがいいらしいんだけど、元々書きたいことだけを書きなぐるというスタンスで始めたので、オカネの話は中でも外でもしたくない……という感じ。まあいいか。
id:pony7330kunさんからコメント頂いたので思い出しましたが、彼(彼女)なしには一生完結してなかったと思います。
……まあそういうわけで、授業を始めましょう。
前回のおさらい!
客観的に言語を測ろう!そうしないと優劣なんて比較できない!おさらい終わり!
複雑さとは何か
優劣を比較するとき必ずと言ってよいほど俎上に載るのが『難しい言語は劣った言語で、易しい言語は優れた言語』というものの見方だ。これがどういうことなのかを考えてみようと思う。他にも表現力の豊かさとかいろいろあるけど、とりあえず今日はこの、難易度で言語を測る方法について。
ここでいう難しいと易しいは、まあ一般的に考えたら以下の基準の数などから判定されるものであろう。
- 文字体系の数
- 語彙の数
- 記号(文字)の数
- 性の数
- 格の数
- アスペクトの数
文字体系というのはまあ何だ、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「英語のアルファベット」「ロシア語のアルファベット」……等々、その言語の中で使われている一つの体系のことだ。単純に、1つの表にまとめられるものを一つの文字体系と呼ぶ。
日本語は少なくとも3つ使う。中国語や英語やドイツ語やスペイン語やロシア語は1つ。ルーマニア語は最近まで2つだった。
語彙は言わずもがな、ことばのことだ。
文字の数というのは、たとえばひらがななら約50個、アルファベットなら26個など、一つの文字体系が所有する文字の数のことである。(ただ日本語のような例外的な言語では、いろんな文字体系を使い分けるので、必然的に文字の数も多くなる)
性というのはまあ……前回の記事を読んでほしい。
文法上の性は、単語のカタチに影響を及ぼす。例えば同じ形容詞であっても、男性名詞につくときの形と、女性名詞につくときの形は異なる
ため、性の数が少ないことは、必然的に覚える量が減ることを示す。
格の数とは、日本語や中国語や英語にはない文法上の概念で、簡単に言えば「本は」と「本を」「本に」などでは、同じ本であっても文章中での使われ方が違う。(「は」の場合は主語として、「を」では目的語として、「に」では対象として……などなど)
そういうとき、ヨーロッパの数多くの言語では、「本」という単語の語末を変えて、文章中での働きを示すことがよくある。
まあなんだ、同じ「私」でも、英語ではIになったりmyになったりmeやらmineになったりするのが、他のいろんな名詞でも働く……と思えばよいのだ。
ドイツ語は4つ、ロシア語などは6つある。ラテン語も6つ。ギリシャ語も6つ。
……6つってかなり多いけどね。
アスペクトというのは、動詞の状態を表すための文法形式のこと。
簡単に言えば、「座る」が基本形として、これを「座っている」とか「座っていた」「座りかけた」「座り始めた」みたいにして、どれくらい動詞の状態が完了してるのか・完了してないのか、を表すことができるようなもん。それらをアスペクトという。
英語で言えば現在完了形とか過去進行形とか。
ちなみに悪名高い?ロシア語には完了体と不完了体があって、なぜか同じ意味の動詞なのに全く違った風に書くものなどもある。正直やめてほしい。
さて、今までの議論をまとめれば、当然こうなるはずである。
アスペクトが多いか少ないかってのは日本語として変なんだけど、
まぁ日本語と違ってスペイン語は点過去と線過去によって、その行為が完了なのか習慣なのか使い分けるからスペイン語のほうがアスペクト多いとか、
日本語には未来形を表すためのことばがないから他の言語より少ないとか、そういうくだらん話だと思ってくれればいい。便宜のため一応多い少ないにしてるだけ。
当然、文字や語彙や性や格変化が少なくなるほど、覚える量も少なくなる……というのは、実感として納得してもらえると思う。
では、そういう言語の方が優れた言語だ!ということでよいのだろうか?
実はここまでがよく交わされる言語優劣論であるが、ここで終わってしまう人は大きな見落としに気が付いていない。
つまり、本当に覚える量が少ない言語が優れた言語なのか!という部分を前提として隠してしまっていて、「覚える量が少ない。よって優れた言語である」という結論を、「優れた言語とは覚える量が少ない言語である」という前提によって先取してしまっている。
こいつ何ゴチャゴチャ言うてんねん!って方はお進みください。
この前提が実は必ずしも正しくないことを説明しますから。
その前に、一つだけ用語の説明をいいっすか。
言語の二重分節性
我々が話す言語というのは、ほぼ間違いなくと言ってよいが、まず土台のところが共通している。
それが「二重分節」だ。分節というのは、「分ける」ことだと大雑把に捉えてみよう。
まあすごく当たり前のことだけど、「私は明日病院に行く」ってのは文ね。
でも、この文ってのはもっと細かく区切れて、
こういう風になる。することができる。
英語やらドイツ語みたいな語と語の間にスペースがある言語ならなおさら楽。
中国語は一文字一文字が語。(熟語もあるけど)
これで何が言いたいかというと、
という風に、文を語に分解することができる。
それは、物質を分子のレベルにできるとかそういうたぐいのものだと思ってもらってよい。
ここに第一分節が現れる。
つまり、1つの文章というのは必ず語のレベルに分解することができる、というのを、第一分節と呼んでいるにすぎない。
でも、これで終わりじゃない。実はもう一個隠されている。
「私」という語に注目してみよう。
この「私」ということばは、当然ながら書きことばだけのものではない。
つまり、発音ありきの書きことばということだ。これはどう発音するか?
こういう時、日本語では便利なローマ字というものがある。このローマ字がそのまま発音記号になっている、と考えてよい。(厳密に言えば、音声学、発音記号専用の記号を使う必要があるが)
この"watashi"という発音は、すべてがひとつながりというわけではない。
当然ながら、こうやって成り立っている。
(ちなみに、「し」はshiじゃなくてsiじゃないかという指摘をされる方はなかなか鋭い。実は日本語の「し」はsiじゃなくてshiが正しいのだ。siだと「すぃ」になってしまう。なぜかと問われれば、他の言語(英語)でそう決まってるから…としか言えないが)
つまり、語の中にも、まだ細分化できる単位がある、ということだ。
これを「音」という。当たり前の話。
こういうこと。
そしてやはり、
これを第二分節という。
ということは、ある種の入れ子構造ができていることに気付くだろう。
- 文章はいくつかの語からできている。(第一分節)
- 語はいくつかの音からできている。(第二分節)
この、あらゆる自然言語に見られる、入れ子構造になった二重の分節構造を「二重分節」と呼ぶ。
面白いのは、これが人間の話すことばになら、どんなことばにも共通するということだ。未開の地で人々が話すことばを調べてみようと、二重分節がない言語というのは存在しない。
もちろん「今のところ」という前提だが、きっとこれまでもこれからも、二重分節がない言語はないだろう。
どうしてこんなめんどくさい仕組みなのかというと、それは当然「人間が生物である以上、何らかの生物学的制約がある」からだと言える。
制約というのは何でもいい。
例えば、口の大きさだとか、聞き取れる周波数だとか、聞き分けられる音の数だとか、覚えられることばの数だとか。
そういうものをひっくるめて「生物学的制約」と呼ぶ。
すなわち、我々は自分の体の限界を知ってか知らずか、限界をオーバーしないながらも、ちゃんと意思疎通を取れるようなことばの仕組みを、いつの間にか創り出してきたのだ。
二重分節が生み出す無限のことば
例えばこう考えよう。今、kとbとtとsとがある。これが子音。また、aとeとiがある。これが母音。これらを「音」に持つ言語を考えてみよう。
子音と母音とを一つずつ組み合わせて「語」を作るとすると、作れる「語」の数は一体何個ぐらいになるだろうか。
答えは4かける3で12。
ka,ke,ki,ba,be,bi,ta,te,ti,sa,se,si
つまり、子音4つと母音3つがあれば、その時点で既に12個の「語」が作れることになる。
では、この「語」の群から2つを重複ありでランダムに選んで「文」を作ると、一体何個ぐらいの文が作れるだろうか。
答えは12かける12で144。(もう書かない)
既に144個の文が作れちゃうのだ!
実際には、(極端に発音しにくくなるとかでもなければ)音をいくらでも重ねていいし、語だっていくらでも重ねられる。
作れる文の数はいくらでも大きくなる。
つまり、二重分節を獲得するというのは、ことばの中に無限大の世界を作ることと同義なのだ。
我々はこの仕組みを手に入れてから、あらゆることばの組み合わせをつくることができるようになった。
これが、二重分節のいいところである。
……で、どうしてこんなことを説明したかというと。
「音や語が少ない言語=暗記が少ない言語=優れた言語」という言語優劣論が間違っていることを示したかったからだ。
必要に迫られてできた言語
なぜなら、言語そのものが、「人間が意思疎通する」ために、仕方なく作られたものだからだ。というと語弊があるから、「必要に迫られて」できたと言い換えてみよう。
それは言語の二重分節性を見れば明らかであるが、このようなめんどくさい仕組みは、我々がある程度の精度を持って意思疎通することと、人間としての記憶力や発音の限界を超えないこととを両立させるためのもの。
その前提に立ってみれば、あらゆる自然言語は「必要に迫られて」できていると言えるだろう。であるならば、自然発生的にできた言語は全て、「必要なもの」を兼ね備えた言語だと言える。外国語から見てそれが「必要でない」ように思われるのは、自分の言語にその要素がなかったり、逆にあったりするためだ。
不便なところは付け足し、過剰で面倒なところは省略され、残ってきている。
しかし、「人間」という種自体に極端な個体差があるわけではない。
記憶力や口の大きさなど、生物学的制約はやはりどんな人種とて超えられない(そもそも人種という括りで人を分けるのがナンセンスなのだが…)。日本人もドイツ人もアメリカ人もイギリス人もユダヤ人もアイヌ人も、皆人であり、共通の制約を神様から与えられている。
であるから、二重分節のような仕組みがどんな言語をとっても共通しているのだ。
そして、日常生活で必要とされることがらの数というのもまた、そんなに異ならない。
当然ここにも、人間はそんなに多くのことを覚えてられない、という、生物学的制約が絡んでいる。
例えば旧来の日本人は魚を食べていたから、魚に関することばが多いだろうが、海に囲まれていない国の人たちがそうだったかというと、疑問だ。
むしろ、例えば放牧をして暮らす人たちの間では、放牧のためのことばが多く話されているに違いない。しかし、日本人はそのためのことばをあまり知らない。
それはただ、遠いか、近いかの違いでしかない。
要するに、人間の生物学的限界が、「日常生活で必要とされることばの数」を定め、その必要に応じてことばが生まれたのだから、全体的な総和としては「暗記する量」とやらはあまり変わらないんじゃないか?というのが、私の考えである。
もっと簡単なことばで言い換えると、ある部分が簡単なら、他の部分でバランスを取っていると言ってよい。
日本語は文字体系も文字の数も多いが、その分学習すれば可読性がかなり高い。
また、話すだけなら発音もかなり簡単だ。
英語は格変化や性の概念がほとんどないが、その分発音は文字によって異なる。boroughの"gh"と、enoughの"gh"の発音が違うのはどう考えてもおかしい。が、全部手探りで学ぶしかない。
ロシア語は格変化が煩雑だが、その分学習してしまえば、語順というものに縛られる必要がない。
中国語は漢字が多く書くのが大変だが、格変化や時制の概念がない分、そっちに気を取られる必要がない。
よーするに「バランス」なのだ。
とっつきやすさなどは個人差があるが、どこか一面だけを取り上げて「この言語は簡単で優れている!」と、決めつけられはしないだろう。
優劣をつけること自体がタブー!と言うのではない。
必要に迫られて生まれた数々のことばに優劣をつけるのはきっと難しいし、そんなことをするためには数千の言語全てを学ばなければならないので、する専門家もいない、というのが、実情である。
したいならやってもいいと思うが、その優劣リストを一体何人が信用するだろうか……
以上5000文字の駄文でした。お読みいただいてありがとうございました。