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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

ナニカを「書く」ことの意味



あとで読む

書くこととは

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ブログ論とかにするつもりは毛頭ないが、運よくブログなるものを執筆しているので、ちょっとだけ絡めて書こうと思う。

 

まずは問うてみよう。

 

みなさんは、『書く』ことに対し、どんな感情を抱いていますか。

 

書くことが全く嫌い・苦手な人なら、夏休み……8月31日……徹夜……読書感想文……等のコトバが頭を巡り、脳が「負のプライミング効果!」と叫ばんばかりの勢いで、一気にトラウマを蘇らせるだろう。

もしくは、いつまで経っても埋まらない「将来の夢」作文とにらめっこしているうちに、悔しくなって悲しくなって、作文用紙に二つのふやけた円ができたこともあるかもしれない。

 

書くことの卑近さにも関わらず、いや卑近さからなのか?その行為自体がもつ意味について日常で考えることはほとんどないはずだ。あるとすれば、日ごろから何かを書いている人、書いて飯を食ってる人、書くのが楽しい人、ぐらいか。

 

「書く」とは何か

大前段。まず「書くって一体何なんだろう」と考えてみよう。

普段考えないからこそ、こういう思考は物珍しく、日常の些事で乾きかけた心に、脳に水を与えるものに違いないと、私は信じている。

それはきっと、「名前をつけること」なんじゃないかな、と思う。

道端の石ころに、通りがかる野良犬に、飲み捨てられたドクターペッパーのペットボトルに名前をつける人はいないように、日々浮かんでは消えゆくこと、その一つ一つを思い返して、手に取ってみて、目に見える形にすること。

 

嬉しいことに、こんなことは700年前にとっくに「名前をつけられて」いる。兼好法師が書いた随筆文、徒然草の冒頭はあまりに有名だ。

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。 

 (何もすることがなくて身を持て余すまま、一日中硯に向かって、心に浮かんでは消える雑多なことをだらだら書いていくと、異常なほどに狂おしくなるものだ)

 まあ彼の文章は題名「つれづれ草」に反して、綿密な計画のもとに精緻と典雅極まる文体で書かれたものだから、シロートは真似できないけど。

 

それでも、「頭に浮かんだそれとない何かを書くと、物事がより見えるし、むしろ見えすぎて狂いそう」というある種の真理を700年前に言い当てた人がいるというのは、まことに驚くことだ。

 

価値を認めることが命名

人間にはふつう名前がある。その理由はたぶん「その人の価値を認めているから」だと思う。

価値。差異こそが価値を生むのであり、他のものとそれとを区別する必要に迫られた時、人間は命名する。それが「価値を認める」ことだ。

であれば、ペットに名前をつけるのは、「一般に言うところのイヌ」ではなく、「耳が少し垂れ下がっていて、尻尾が短くて、我が〇〇家に13年いる、他でもないこのイヌ」であることを再認識するためかもしれない。

付けようと思えば、道端の石ころでも、ペットボトルでも、何でも命名できる。

……それをしようと思う人がいない、というだけで。

 

命名することで、その対象と自分との繋がりを確認し、安心したい。

それがきっと命名のモチベーションになっている。

知り合った人の名前をまず尋ねること、赤ちゃんが生まれたら名前をつけること、ペットに名前をつけること、人をおちゃらけたあだ名で呼ぶこと。

 

人間はきっと、命名せずには(名前を知らずには)いられない動物なのだ。

 

それと同じように、頭に浮かんできたいろんな物事に対して、定期的に名前をつけてあげることが必要になると思う。その際に人間は「書く」。

別に「話す」でも良さそうなのに、どうして「書く」なのだろうか。

そこには、話す と 書く の根本的な違いが横たわっている。

 

書くことは瞬間的にはできない

その違いというのは、時間的幅だと思う。

「とっさに話し間違える」ことは誰しもよくあるが、「とっさに書き間違える」ことはできない。普通、書くことというのは話すことよりよっぽど時間を喰う。

これは今も変わらない。

どんなにタイピングが上手かろうと、話すよりも速く打つことはできないだろう。アナログ形式ならなおさら、それこそ速筆という特殊技能でもない限り、普通の人が話すより速く書くことは、まず無理だ。

 

幅というのが、まあちょうどよい。

 

自分の中にある想いをあーでもない、こーでもないと、もだえ苦しみながら文字にしていく作業。リアルタイムの会話とは違い誰が待っているわけでもないから、自分のペースで完成させられる。話すこととは根本的に違う。

「正しく命名する」……言い換えれば、「正しく価値を認める」ために、ちょうどよい幅を持っているのが、書くという行為なのだ。

 

 

ここまでの話をまとめよう。

  • 書くということは命名することである。
  • 命名とは価値を認めることである。
  • 価値を認めるのにちょうどよいのが、「書く」ことだ。

 

 

逆にいえば、日常の様々なものに対し何ら価値を認めていない場合、「書く」という行為は苦痛になってくるだろう。小学生の読書感想文や、無理に書かされる反省文などがそれに値する。

 

消えていく「想い」

人間は忙しいから、ふと考えたことなんて、数時間もすればすぐに忘れる。

自分の人生を揺るがすような大事件、価値観の一変だって、数年経てば見知ったものになるし、下手すれば記憶の地平線の向こうに消えてしまっているかもしれない。

そういう数々の想いが今までの人生にいくつあったのだろう、と考えると、私は恐ろしくなってしまう。

 

自分の想いというのは、まず間違いなく自分のものだ。

でも文字にしておかないと、いつかはそれを忘れる。

じゃあ、忘れ去られた想いは誰のものなのか。自分のものと言ってよいのか。

「自分」というものが記憶でできているなら、忘れ去られた無数の想いでできた自分は、果たして自分なのか。

 

そう考えると怖くなるので、自分の構成物である自分の想い、記憶なんかも、目に見える形で保存しておきたい。

そうやって始めたのが、ブログだし、手記だ。

 最悪、記憶を失っても、過去の自分が書き残した、もしくは現在の自分が書き残すであろう様々なことを読めば、自分がだいたいどういう人物だったのかぐらいは推測がつくはずだ。

 

自分の文章≠自分

書くということは、命名であると同時に、客観化でもある。

ここでいう客観化とは、決して「自分以外の誰かに自分の想いを見せる」というような意味に留まらない。

『文字というカタチを取っている自分の想い』は、自分とは別の存在だ。苦悶の中で産み落とされた赤子のように、または自分の分身のように、自分とは離れている。

 

つまり、自分の中にある想いを、価値あるものとして認め、文字にして吐き出して「命名」することで、自分から独立した存在であると知る……このプロセスを客観化と呼ぶ。

 

主体なき文章は魂を失わない。むしろ逆に自分に対して静かに語りかけてくる。

「この日、お前はこんなことを考えていたんだぞ。それも含めてお前なんだぞ。この時のお前がいるから、今のお前があるんだぞ」

というように。

 

手記やブログを、1年ほど経って読み返すのが好きなのは、この瞬間があるからだと思う。過去の自分がどんなことを考えていたのかなんて全然覚えていないが、文字ならカタチをとどめていられる。

自分から生み出された文字が独立しているぶん、却って「繋がって」いると実感しやすい。

 

文字という媒体を通して、過去の自分が時間を超えた手紙を転送してくれているようで、たまらなく面白い。

 

そこに書くことの可能性を感じ取ったから、ブログを始めた(このブログじゃないけど)のだと、数年前の私の手記には、確かにそう書いてあった。

少々青臭くて恥ずかしいが、私の本音なので、そのまま受け取っていただきたい。

 

 

……まあ、その想いとやらも、事件ですぐに消え去るわけだけどね。

www.chishikiyoku.com

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……というのは置いといて。最初に戻ろう。

 

ほんの少しでもいい、書いてみよう

別にブログの執筆を勧めたいというわけじゃなくて、ただ「何か書いてみよう!」と皆さんにお誘いをしているだけだ。

それは1行の日記でもいい。「8月13日 唐揚げ弁当を食べた」でもいい。

8月13日に唐揚げ弁当が食べたかったのだという『過去の自分』と、繋がりを感じることが目的なのだから。

繋がれるなら手段は何だっていいし、そこに重さもないと思う。

 

価値観が多様化した現代、不安定で流されやすい私たちは、どこかに強固な棒を設置しておいたほうが生きやすい。書くことは、きっと素晴らしい棒になれる。

 

 

という話でした。じじつ、いろいろ辛いこともありますが、過去の自分が今の私を手助けしてくれているのは間違いありません。

どんなに短くてもいいので、まず「書いて」みましょう。

誰に見せなくたって、自分が読めるならそれでいいんです。私の手記の字はかなり汚いので、頑張らないと読めないところもありますが、それで満足してます。

見せたい人はブログとかいうお手軽承認欲求ツールがあるのでどうぞ。結構骨が折れるけど。

 

そうして皆さんが書くことを愛するようになれれば、すごく幸せです。

 

……って、ブクマカーの皆さんなら、毎日100字で自分の想いを書いていらっしゃるようですね。辛いときには読み返してみましょう。

過去のブクマが、きっとあなたに力をくれるはずです。