ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

うっすいコメントが何となく苦手な理由



あとで読む

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たまーに、たまーにだ。

 

すごくたまに、「すごいですね!」(終わり)「参考になりました!」(終わり)というたぐいのコメントをされる。

 

私のブログのコメント欄は承認制だから、私がいいよ!というまでは、コメントが表示されない。だからみなさんはそういうコメントをここで見たことがないと思う。

 

なぜなら、そういうコメントを頂いても、どう反応すればいいかわからないからだ。正直なところ。

そういうコメントはだいたいの確率で自分のブログも紹介してて、「お、おう」となる。

 

 

コメントで非承認のままになっている(ありがたいので削除してはいない)方にはご了承願いたいが、私はああいうたぐいのコメントがどうも苦手のようで、その背景にはコミュ障というか、面倒な私の考えが絡んでいる。

今回、これを記事にして、モヤモヤを取ってみたい。

 

ネットは没個性ではない

よく、匿名社会は没個性的だとか言われるが、むしろ逆だと思う。

尖ったのも、丸いのも、相手の顔を見ることさえ叶わないネットでこそ、「個」ということばがより一層輝くんじゃないかな、と感じる。

そのよい例がはてなの大先生ことid:xevraさんだ。

 

彼(彼女?)のブックマークの累計は数万単位、間違いなくベテランの領域である。

 

しかしそれだけでは個を手にすることはできない。

「こいつ!!」という印象を人々に植え付けるためには、他の「ナニカ」がなければならない。

 

xevraさんの例でいえば、

 

「睡眠、瞑想、運動、野菜350g」だとか、

「うつ病は大脳が壊れた哀れな~~この記事をプリントアウトして病院に」

のような、普通の人があまり主張しないような内容のことがらだ。

 

上質なダマスカス鋼を練って極限まで鋭利にした辛辣ブックマークも、また個性の一つである。

 

これが良いことか悪いことか、私が好きか嫌いかなどは別にしても、

そういうことを議論されるぐらいには、xevraさんの個は「際立って」いる。

 

だが、これを言うのが私であれば、みんな黙って通り過ぎるだろう。

なぜなら私は有名ではなく、私の存在が好きか嫌いかなど、家のハンガーの色を討論するぐらいにどうでもいいことだからだ。

 

一癖も、二癖もあるからこそ、議論の俎上にのるのだ。

 

本音というか本性を以って語られる匿名の場では、好き嫌いの主張も極端に出やすい。

現実世界でニッコリ顔でも、ネットでは能面を一度外せば好き放題言える。

であるから、語られる「個」の主張も相応に強くなる。

 

同様の例はプロブロガーにも言えることだ。

有名になりたければ、何か強烈な個を手にしなければならない。

 

 

これを図にすると以下のようになる。

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現実世界においては、個の強さと目立ち度はおおよそ比例する。

なぜなら、少なくとも一般人に関して言えば、テレビやラジオに出たり出版でもしていない限り、急激に目立って拡散されるようなことはないはずだからだ。

 

しかしネットではこうなると考えられる。

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ネットの世界は広いし、その分いろんな情報が拡散されやすい。

それだけ尾ひれもつきやすい。

しかし、中途半端な個では、目立つことはない。なぜならば匿名であるがゆえ、また自分の暮らしに直接関係ないがゆえ、拡散する気にもならないからだ。

ごく一部、「これは!!」と感じられた者だけが、個を手にする。急激に。

 

 

 

例えば。

www.kk3marketer.com

 

このブログを書いてらっしゃる方は学生、私とおそらくそんなに変わらない年齢だと思うが、私が好き勝手パンチラのこととか書いてる間に、すっかり遠くに行ってしまわれた。

最近ではブロガーに向けた、「伝える」ためのセオリー記事を執筆しておられる。

 

このように、情報の受け手になる対象をちゃんと決めるのも、個を手に入れるための手段の一つである。

 

 

もしくは、

www.gudaguda.work

id:dacsさんの試み。

誰も思いつかなかった新しいことを始めるのもまた生存の一手段となる。

私のような老害じみたことを書く人より、新しいことを始める人に、みんなついて行くのだから。

 

 

ともかく、「個」を手に入れなくては、この熾烈な世界では生き残れない。

他人と同じ努力では頂点に立てないのだ。

なあに、漫画家や小説家やyoutuberだって、同じ話じゃないか。

 

 

つまり、この世界で求められるのは「その人らしさ」であり、他人との差異によってこそ価値が生まれる。馴れ合いで済む現実社会と異なる点がここである。

 

「その人らしい」コメント

話をコメントに戻そう。

 

当たり前の話だが、例えばブックマークを例にとっても、辛辣で強烈なxevraさんのコメントと、「すごいですね!」のコメントには、量的には何の変わりもない。両方とも数字では「1ブックマーク」としてカウントされうる。

だが、両者がもつ性質は大きく異なるだろう。

 

前者が自分の個を存分に発揮した、いわば「その人らしい」コメントであるのに対し、後者は定型文感が否めない。

 

一般論的に、前者を疎み、後者に感謝する人は沢山いる。

 

それが悪い、というのではない。

 

(勘違いしないでほしい、私は「薄いコメント」叩きをしているのではない。

その二つのコメントがもつ性質から、何とか後者が苦手であるという結論を導こうとしているだけだ)

 

定型文が好まれる理由

 

身近な人だからこそ、言えないこと、というのはある。

その人を気づかってというのもあるし、保身という理由でもあるだろう。

 

何にせよ、仲の良いブロガーさんなどに、「その記事燃えそうですね」とか、「全然共感できない」なんて、簡単には口にできないのだ。

(ブクマカーたちにそれを「馴れ合い」と言われればそれまでだが)

 

 

そのため「すごいですね」「勉強になります」「なるほど」という定型文、当たり障りのないコメントが好かれるのではないだろうか。

 

 

しかし少なくとも、ネットにおける「個性」という点でみれば、強烈な個を発揮した、いわば「誰にでも書けるものではない」コメントに軍配が上がっているように見える。

そして、我々はそこに「その人らしさ」を見出すのだ。

 

個を見出す安心感

コメントであろうと、ブクマであろうと、誰かの記事であろうと、我々はそこに同一性を見つけたがる。

「あの人だから、やっぱりこんなこと言うんだ」「この人いつも同じこと言ってんな」というように。

不透明で線のない世界にことばを与え存在を認識するのと同じように、私たちは日々、「その人がその人である理由」「その人がその人だとわかる根拠」を探しては、安心している。

 

何か強烈な「個」がある人に、寄ってたかってみる。心酔したり、叩いたり、監視したりする。

 

その風潮が、現実よりも盛んだと感じることは多い。

 

そして結論から言えば、「その人らしい」コメントというのは、得てして有機的(他のコメントや記事と繋がりがあること)で、血が通っているように思われる。そして逆に、「すごいですね!」「なるほど!」のような定型文は、いわばそれ自体が宙に浮いていて、無機的な印象を受ける。

 

(何度も言うが、これは私見、個人的な感性の問題であり、どちらかを落とし、どちらかを上げているわけではない。一面に立って考えた上での意見にすぎない。)

 

 

スパムと疑ってしまう

こういう捻くれた見方しかできないがゆえ、定型文的な文章を見ると、なんとなく身構えてしまう。

もしかしたらこうやって書きこまれたプラスのコメントも、自動無差別的につけたスパムなのではないか。

 

だとしたら、嬉しい嬉しいと喜ぶ私を後目に、その機械は私のところに来たのと同じ内容のコメントを、数千と他のサイトにつけて回っているのではないか。

そうするともう、素直に喜べないのだ。

 

嬉しいことには変わりがないが、やっぱり互いの顔が見えないからこそ、「その人らしさ」を感じたい。出したい。

 

そういう考えも、あっていいと思う。

それでは、瞑想に戻ります。大先生。