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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

街ですれ違う人たちを見て、気が狂いそうになる時



あとで読む

ぜーたです。先日は結構大きな反響ありがとうございました(誰に言ってるの)

教育って難しいんだなあと改めて実感できました。コメント下さった方々、特にお世話になりました。成長できた気がします。

 

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テスト勉強が忙しくて更新どころではないので、質の低い記事で申し訳ありませんが、今日はそんな私の本音というか、誰にも共感してもらえない感覚をお伝えします。

めんどくさくなってきたので今日も常体。

 

街に繰り出す

たまに、何の用もなく、手持ちぶさたに街をぶらつくことがある。ぶらつくと言っても、自転車でだ。無心で自転車を漕ぐのはとても楽しいし、運動にもなるし、ストレスも解消できる。いいことずくめだ。

だが、そんな私には、今まで接してきた友人の誰にも理解されない悩み……悩みではないのだが……がある。

信号待ち、「ふと我に返って、気が狂いそうになる」ということである。

 

私は当然精神的な病を患っていない。だから、「病院行け」なんて言われて、本当に病院に行ったとて、当然何も異常が出てくるはずはなく。(そもそもそういう発言は、本当に病で苦しんでいらっしゃる人に対して、ずいぶん失礼だと思ってしまう……少々安易ではないだろうか。)繰り返すが、私は病で苦しんでいるわけではない。ただ、中二病で苦しんでいる、と思っていただけると助かる。

 

どうして狂いそうなのか?

おそらく理解されないだろうが、

「街にいる数千の人々にも、それぞれの人生があるんだなぁ」

と考えてしまうのである。そうして私は自分のこの感覚に囚われ、石化してしまう。町中で、突然にだ。

 

だが、

当たり前なのである。

 

当たり前のことを実感して、気が狂いそうなのだ。それは……何だろう、難しいが、

「他人が見た赤と自分が見た赤を共有できない」と知ったときの衝撃にも似ているし、

「自分の背中は自分で見れない」と知ったときの衝撃にも似ている。

なにぶん、こうやって例えるのが精いっぱいなのだが、この例えも私にしかわからないものなので意味がなさそうだ。だいたいこれも当然だし。

例えても意味がないので先に進むことにしよう。

 

いたるところで

実はこの感覚、バスに乗っているとき、電車に乗っているとき、飛行機に乗っているとき、商店街を歩いているとき、大学を歩いているとき、……などなど、無数の場面で出くわしてしまう。まあ、出くわすといっても3か月に1回。

なのだが、頻度としては結構多い。人の話が聞こえなくなることもある。しかも、突然だ。

まあ、発作(?)時間は5秒なので、大したことはないが。

 

うぅっ……皆、俺から離れろ!俺の右腕がぁああああ

……という状況にはならないので安心してほしい。

 

 

一応言っておくが、さすがに自転車に乗っているときに思い出したりはしない。それはまあ……けっこう大変だろう。

 

もう一度言う。

「街にいる人々にも、それぞれの人生があるんだなぁ」

 

どうだろうか。共感していただけるだろうか。

 

なぜ怖いのか

これに感情の名前をつけるなら、「怖い」だろうか。怖い。

お化けの怖い、上司の怖いではない。

「おびただしさに対する怖い」である。

といっても、大量の蟲がうごめいているのを見たときの怖いともまた違う。

 

壮大さと怖さが入り混じったような感じである。

 

何が壮大かというと、「人の人生」であり、また「人生がたくさんあること」だ。

怖いは……「その人生への無関心さ」だろうか?

要するにだ。要せているかわからんが。

「街にいるひとりひとりに名前があって、家族があって、職場(学校)があって、暮らしがあって、人生があるのに、自分はその誰とも関わらずに死んでいくんだなぁ」と考えて、気が狂いそうになるのである。

 

狂う狂うというと、病を患った人に対して申し訳ないが、狂う以外の表現が思いつかないからこう表現している。

 

まあ、当たり前である。

 

他人の「己」≠自分の「己」

己というものを考えてほしい。

本当に不思議だと思うのだが、みんなには当然だと言われてしまった。なにかというと、他人の「己」と自分の「己」が別物だということ。

いや、ここまでお読みいただいている皆さんならわかるだろうが、

ただ哲学チックな中二病をこじらせてるだけ

だし、

そもそもこの事実は当然

なのだ。他人の人生を自分が生きることはできない。逆もまた真。

これはまさに当然の事実であろう。

だが、この当然の事実にたいして抱く恐れに、私はいまだに答えを出せないでいる。

この感情がなぜ出てくるのか?出てこないのは自分だけなのか?と、いまだに問い続けるほかない。

 

だとすれば、それを克服するしかない。

他人の己を知るためにはどうしたらよいか?というと、

他人と接することである。

※接したところで本音なんかわかりっこないという人もいるかもしれないが、それでも「知らない」のと「面識がある」では、天と地の差があるだろう。

だから、私はいろんな人と接するようにしてきた。他人のことを知れば、「全人口に対する、私が知らない人」の比を減らせるし、もしかするとこの悩みを共有できる人がいるかもしれない、と。そう考えた。

だがしょせんは無力だ、70億の人たちの前には。たとえ一日一人と出会っていくとしても、たった3万人としか話せない。一時間でも足りない。下手すると一秒でも足りないのではないだろうか。

それに、結局気持ちを共有できる友人には出会えていない。

この感想を持たなくなるのは、私が死ぬときだけかもしれない。いや、冗談抜きで。

 

ひどくなってきた

これがますますひどくなってきた。最近は「この道路を作っている人の人生もあるんだ」とか、「この缶コーヒーを設計した人の人生もあるんだ」果てには「このゴミを落とした人の人生も」「自分が吸った空気をかつて吐いた人も」なんて、

亜種パターン

が生まれてきている。繰り返していうが、私は生まれつきの普通の人である。

この感覚を持って生まれてきたこと以外は、何ら変なところのない人間だと自負する。(あ、思想がおかしいとか性格がおかしいとかは……ナシでお願いします)

この話をしたとき以外で「病院行きなよ」なんて言われたことはない!……と、思う。いつからこんなみょうちくりんなことを考えるようになったかは覚えていない。親にも話していない。

ちなみに、読んでおわかりのとおり、多重人格ではない。自分は自分として、自分の人生を生き続けている。

 

ネット上でも

ついにこの間、ネット上でも出くわしてしまった。あるバズった記事のブコメを読んでいる時だ。

「この記事にブコメしてる人たちにも、悩みがあって、家族がいて、それぞれの人生があるんだなぁ」と思ってしまったのだ。

のべ500人。

その500人が、互いの顔を知らずに生きている。下手すると、知り合いなのに知らない風しているかもしれない。誰がブログをやってるかなんてわからないもの。

負けた、と思った。

この感覚を抱いたら負けなのだ、私の中では。

 

『皆さん』の人生

皆さんにも悩みがあるんですよね。それは当然として。

「そういう風に一つの言葉にまとめた『皆さん』の顔を、私は誰ひとりとして知らない」

という事実。

この事実に私は打ちひしがれてしまう。何なら全員と知り合いたい。お喋りしたい。 

 

 

誰か、私のこの感覚を共有できる人はいないのだろうか。広大なネットの海だから、同じ感想を持つ人がいらっしゃるかもしれない。出会ってみたいものだ。

このままだと本当に狂ってしまって、私は呼吸もロクにできないまま死んでしまうかもしれない。というのはさすがに嘘だが、かなり気になってはいる。

 

 

もしこの記事を最後まで読んだあなたが、これに少しでも共感できるのなら、何でもいい。

反応をください。コメントでもブクマでもツイッターでも何でもいい。

 

誰か、助けてくれー!