ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

「思ったことをすぐ口に出す」のは子供の特権かもしれない



あとで読む

f:id:zetakun:20171015172223p:plain

水風船で遊ぶ子どもたちのイラスト―「いらすとや」より

(以下、何らかの精神的な障がいと診断された人々を、馬鹿にしたり貶めたりする意図はないことを前置きしておきます)

 

 

 

ちょっと思ったことがあったので久々にこっちに出てきて書こうかなと思う。

私の友人……仮にKとしておく。Kの言動はというと「斟酌のない物言い」だ。

自分の関心がないもの・興味がないものに関しては「知らん。興味ない」で終わらせるし、友達がオススメして聞かせてくれる歌に対しては「声があまり合ってないね」。あの映画面白かったから見てみて、と言われれば「いや、忙しいし見ない」

 

これだけ言うととても悪い人のようだが、かえって厄介なのが「本人は自覚していない」というところ。そして「根はめちゃめちゃいい人」。

なまじっか完全な悪人でないだけに、指摘するのも少し躊躇われる。

 

他の友人がどう思っているのかは知らないが、私自身彼の言動に傷ついたことが、たぶん10回そこらぐらいある。私も結構思ったことを正直に言うほうだと自覚しているし、他人からのそういう言動にも割と鈍感であるが、その私でさえけっこう傷ついているので、優しき他の友人にとってはもっとなのではないか。

 

なんかけっこう頭の中がごちゃごちゃしてるので、ここにいろんな考えとかを書いてみる。

 

いきさつなど

さて、私の頭の中がごちゃごちゃしている原因というか契機から話していく。

当然自分に都合の悪い言論を隠したりはしていない。

 

まずはじめはKとの「歩きスマホ」の口論……なんてレベルでもない、話し合いがきっかけだった。

私は以前歩きスマホをしていて車にあたりそうになったことが原因で「歩きスマホは危険である」という考えを持っていた。雑談として出てきた「歩きスマホ」については、「危険だしやめたほうがいい、移動中にスマホをしなければならないほどみんな切羽詰まっているのだろうか」というような旨をKに伝えたところ、Kはなんと絶賛歩きスマホ派ということが判明。

「切羽詰まってないけど、暇だからやってる」と話すKに対し、私は「視界が何分の1になる」とか「事故にあった人の例」などを持ち出し、どれだけ歩きスマホが危ないことであるかを説明。

 

するとKは「視界が何分の一とか言われても、実際にまだ事故に遭っていないのだから危険が実感できない」と答える。要するにやめる気はないらしい。

ここで引き下がっておけばよかったが、深夜帯の特有のテンションで私の議論はヒートアップ。

あげく彼は「何なら以前は自転車に乗りながらスマホをいじっていた(けどその時にスマホを落として割ったからやめるようになった)」と言うもんだから、「原付乗りとして言うけどそれは絶対にやめて」と忠告。

 

なんやかんやで見つけた学術論文的なものを引用したりして、「論文もあるから読んでみなよ」というと、Kは確か「そうやって言われても、読む気にはならないし、嫌味に聞こえる。お前が正しいのはわかってるけど、俺は忠告があったからと言ってやめる気はないし、正直に言うとかなりお節介だ」的なことを言ってきた。

 

あ、お節介なんだ。これ。

私は今までの無礼?を謝り、「お節介ならもう二度と言わないわ」で議論終了。

脚色しようとすればいくらでも向こうの非を強調できるけど、このぐらいにしておく。

 

私は(たぶん)ほぼ100%、Kが歩きスマホで事故にあったとか聞いたら「なんであの時もっと注意しておかなかったのか」と後悔してしまうのを恐れての忠告のつもりであったが、それが彼には逆効果で、簡単に言えば「余計な世話を焼くなうぜーよ」という気持ちだったらしい。

 

気を使ってくれるのはありがたいけど、と前置きしつつ、「正直に言えばかなり忠告がいきすぎ」と言われて、私は返すことばもなくなってしまった。

節介焼きかなと前々から自分で意識していたぶん、結構ダメージがでかい。

 

ここまで本心を暴露されたのもなかなか珍しいので、久しぶりに傷ついた、という次第である。

そこで思ったのが以下のこと。

 

ヒトは自分の考えや自分の好むものの悪口に敏感

まずこれ。

Kでさえ、少しかもしれないが「現実主義だと言われてしまう」ということを悩んでいたようだった。現実主義というのは確かに彼の評価にうまく合ったことばであり、以前に私じゃない別の友人にも言われていたらしい。

「自分がどうして現実主義だと言われるのかわからない」と彼は言っていたが、きっとそれは「他人の考えや正義感に土足で踏みこみ、誰かの信ずるロマンを崩していく」という言い換えに他ならないのではないか、と思った。

 

自分が好きなものを否定されるというのは正直かなり堪える。それがたとえ「知らん、興味ない」というKの一言だったとして、Kとしてはきっと傷つける意志も悪意もないものだとしても、好きなものに対して相手が一片の興味も持ってくれないというのは、かなりきついだろう。

 

しかし同じことを私は彼にやっていた。「歩きスマホ=危険である」という前提を理解しながらあえて「暇」という理由で歩きスマホを行う彼に対して、「歩きスマホ=危険である」という等式を理解させようとしていたのだ。

彼の考えからこれは受け入れられぬものであり、よって私への「お節介」という言動に繋がったと考えられる。

 

その上で、「思ったことを口に出してしまう」という悩みに対する対処法があるとすれば、きっとそれは以下のようなものだろう。

 

「論理だけでシロクロつかないことの方が多い」と理解する

感情論だけでわめきたてる人間もいるとは思うが、私の周りで「思ったことをすぐ口に出す」人というのは、どうも論理でいろんな物事が解決すると思っている人に多いような気がする。……私も含めて。

歩きスマホの件もそうであるし、例えばデブで悩む人に対し「じゃあ痩せればよくないか?」と言ってしまったり、ペットロスで悲しむ人に「新しいの飼えばよくない?」もやはり同じである。

 

きっと長い時間を要するが、「人には人の、自分には自分の考え方や正義観があって、互いに押し付けたり押し付けられたりすることはできない」のだと、理解していくしかない。

 

それからもう一つの解消法であるが、

 

断定的な口調をやめる

というか私も、ただでさえ……つまり割とおとなしいブログでさえ、「言ってることが全部正論に聞こえる」なんて評価されてるのを自覚しているから、リアルではもっとなのだろう。(数か月前からはだいぶ意識し、改善したという自覚はあるが)

 

Kの話でも、「興味がない」ことを伝えるための様々な手段があるにも関わらず、人間関係の機微だとかグレーゾーンをひとくくりにしてしまうがため、「知らん、興味ない」というつっけんどんな言い方になるのではないか。

 

これが例えば、「わかった、時間があったら見てみるわ」とか、「初めて聞いた、どんなアニメなの?今は時間がないからあとで教えて」というような言い方だと、それとなく相手に察させることができる上に、お互いに傷つかなくて済む。

 

要するに断定的な口調しか知らないばかりに、人間関係の外交上で使えるカードの枚数、種類が少ないため、他人から「つっけんどんだ・無神経だ」という評価を下されやすいと。

 

あと一番最後の対処法として。

 

他人に興味関心を持つ

ということはかなり大事だろうと思う。

他人に対して無関心である人間は、他人がそれを聞いてどう思うか、どう感じるかに対しても、同じように無頓着である可能性が高いと思う。

これに関しては私は既にクリア済みと自負しており、むしろ関心が高すぎるがために、他人の考えに首を突っ込んでしまう短所もあるが。

しかし友人Kのような場合だと、そもそも「なんで他人に興味が持てないのに、わざわざ他人の好きなアニメに興味を示さなきゃいけないの?」らしい。だから「は?知らん、興味ない」ということばが出てくるのだという。

これ自体は正論というかしょうがない面もあるが、他人にそこまでつっけんどんに接していいという正当性を担保しない。

 

一番いいのは「他人(や他人の好きなもの)に対する興味を持つこと」であるが、それが無理ならせめて傷つけない言い方というものを学ぶべきであろう。

べきというのは私が言論を押し付けているのではない、そっちのほうが単純に「生きやすい」からだ。

敵をつくらない生き方、要領の良い生き方をしたいものである。

 

 

やっぱり「言い方」って大事やなって

3000字にわたり書いてきたが、結局のところ思うのは、全部「言い方」なんやなってこと。Kの言い方に友人がダメージを与えられてるのも、私がKをいらだたせたのも、それによって私が傷ついたのも、全部「言い方」の問題だ。

 

そう言う意味では、大人と子供の違いは「言い方」にあり、ズカズカと相手の心の中に入って行って、ある種自分勝手な言論をまき散らすのは、いわば「子供の特権」なのではないかと思った。

塾講師をしているとたまにそういう子に出会う。誰に対しての悪意を持っているわけでもないのに、我々講師たちの心を正確に鋭利に抉る子供が。(もちろん人の嫌がることを何一つ言わない子もたくさんいる)

そう言う子が斟酌とか機微ということばを知らぬまま大きくなると、俗にいう「思ったことをすぐ口に出す」人になってしまうのかもしれない。

 

小さい子が蟻の巣に水をかけて彼らが溺れるのを嬉々として眺めるときのような、そういったある種の「純粋さ」(文脈によれば「素直さ」と言い換えても良いかもしれない)が心の中に存在していて、不可視のことばのナイフで、人々の心をグサグサと刺し続けているのかもしれない。

 

何が言いたいか、

要するに「敏感さは大人の必要条件」ということだ。

他人を的確に気づかい、慰めや説得や怒りや喜びや感嘆のことばを適切に使い分ける人間こそ、真の大人なのかもしれない。

 

ということで、この記事を自省がわりに、また明日から交友に励もうと思う。