ちしきよく。

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「差別は駄目だ!」としか主張しない姿勢もまた危うい?



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先日、小学六年生の子に「なぜ差別してはいけないんですか」と尋ねられた。私は答えに詰まってしまった。ちなみに本人は反語じゃなくて疑問のニュアンスで聞いてきたから、彼が特別捻くれてた……とかではないと思う。

そういえばなんでなんだろ。

とりあえず「そりゃあ差別された側が傷つくからでしょ。しかも平等に人間の能力を測るのを邪魔しちゃうしね」と答えておいたが、後からよくよく考えてみるとこれ、答えになってないんだよね。

で、もっともっと考えると、結構な数の人が「差別=駄目」だとは思ってるけど、自分も含めてそれがなぜなのか説明できない……という。アタマの良い方がブクマで教えてくださることを期待……はしてないから、とりあえず自分の考えを述べていく。

 

 

差別が駄目だという思い込み

まず、こんなことを言ってしまうとめちゃくちゃ叩かれそうだけど、差別が絶対的に駄目だ、っては言い切れないと思うんだ。

あなたが考えてる「差別=駄目」ってのはちゃんと根拠があるのかな。あればいいさ。あればね。

私にはなかった。なんとなく駄目だとは思ってたし、上のような浅い答えぐらい用意してたけど、ちょっとでも考えたことがあればわかるはずなんだな。差別が駄目だ駄目だなんて言うその口で、自分たちも普段から差別をやってのけてるかも、ってことに。

差別が駄目だという価値観を信じ込みすぎて、逆に視野が偏狭になっちゃってる、というか。

 

これを実感したエピソードがあった。私には韓国人の友達がいる。とってもいい人で……その、すごく情けない話なんだけど、ネットの「本当の韓国人の真実!」みたいな、私が想像していた韓国人とは、まったく真逆の人だった。

彼にある日「日本語が上手いね」と言ったことがある。

彼は何と答えたと思う?

「外国人はみんな日本語が下手じゃないといけない?」と。どうやら私以外にもたくさんの日本人がそんな風に言うらしい。びっくりした。私はただその上手さをほめてただけで、そこに他意はない。他の人もそうかもしれないし、あるいは社交辞令かもしれない。

ただ間違いないのは、彼が「差別の意識」を受けた、ってこと。

確かに彼が少し過剰な反応をしたのかもねとは思ったけど、差別ってのは差別者が決めることじゃない。被差別者が「差別だ!」と感じれば、それは差別になる。まあ1人だけじゃ差別じゃないかもしれないけど、みんなが思えば社会的な問題になる。

一部の例を除いてね。

 

私は気づかないうちに、他人を傷つけてたんだな。だから私に「差別はいけないことだ!差別をする人は悪い人だ!!」なんて言ってのける権利は本来なくて、それはだいたいの人も同じだと思う。誰もかれも知らないうちにことばとか態度で、別の誰かに差別的に接し、傷つけて、それでいて知らんぷりして生きてる。ブーメランってやつだね。

 

さっきの例と同じような例をあげてみよう。

 

屈強で怖い顔をした黒人さんが歩いてきたから、距離をとった。

中国人と仲良くなるのをためらった。

ツイッターをやっている人をばかにした。

アイドル好きな人をばかにした。

「うつは甘えだ」とうつの人を嘲った。

 

それこそイエス様のような聖人でもなければ、上のようなことを誰でも、一度か二度くらいはやったことがあるんじゃないかな。 

逆に、「なんだその発言、差別的だなぁ」と他人の言動に対して思ったこと、それを言われて傷ついたことも思い出してみよう。

言ったことも言われたことも、私はたくさんある。

 

偏狭なレイシズム(ユダヤ人差別や黒人差別)が咎められるのは当然としても、私たちが普段からやってる「無意識的な差別」とでもいおうか、自分でも気が付かないけど、他人にとっては差別だと感じるソレとレイシズムは何が違うのか。結果的に社会問題になったか、まだなってないかの違いにすぎない。

そして、ただ「差別は許せない!!」とだけ叫んで回る姿勢は、一番身近な自分のことさえも気づきにくくしてしまうと、私は思うんだな。

 

「差別はなぜ悪いか」から考えると……

差別はなぜ駄目なのか。許されてないのか。

そう聞かれるとほとんどが私と同じことを口にするだろう。

「差別されたほうが傷つくから」と。

この姿勢がもう、いかに我々が差別について無知か、無意識的かを示してると思うんだ。

差別されたほうが傷つく から差別が駄目なのなら、

「差別してよいのは相手が傷ついていない場合である」ということになってしまう。

これは奇妙な表現だな、うーん。相手を傷つけない差別ってあるの?

 

英語で"You are cold."というのは別に自然な表現だけど、「君ハ寒イ」と日本語に訳するとどうも変な感じがする。「寒ソウダ」とでもすれば自然になるかな。

自分以外の誰かがそれを「感じている」と決めつけるのは、なんとなく押しつけがましい気がしてしまう。というか相手が傷ついてるかどうかなんて自分じゃわかるはずがなく、この表現では現実的にあまり意味がない。論理的には正しいけど。

「傷ついてなさそうな場合は」とするのが良いのかも。

 

ただこう言い換えたらもっと問題点が浮き彫りになってしまう。

「差別してよいのは相手が傷ついてなさそうな場合である」と。

つまり、とある表現があって、それを自分が「差別的な表現である」と思ってなければ、相手にそれを言ってもいいということになる。だがそれを差別と呼べるかどうかという問題は全て、相手の受け取り方にかかっている。

相手が差別だと思えば差別だし、違うと思えば違うはずだ。

 

つまり、他人が傷つくから差別は駄目なんだ、という考え方は、実は相手のことを考えていない、自己中心的なものということになってしまう。本当に奇妙だ。

 

だからまあ確かに「差別が駄目だ」っていう考え方が絶対に間違ってないであろうことについて、私はなぜかそう確信できるんだけど、「なぜ?」と聞かれれば答えに窮してしまう。

 

イデオロギーと化した「差別絶対悪論」

そういう現状があるのに、差別は駄目だ差別者は悪だ!と繰り返し説き続かれているのが一般的な差別論なんだけど、これを私は「差別絶対悪論」とでも呼ぶことにした。

繰り返して言うけど、この論だけを主張することは、我々を差別への解決から、皮肉にも遠ざけてしまう。

 

それはうーん、例えるなら、「自分は騙されないぞ!」と思ってる人のほうが、実は簡単にコロッと騙されちゃうような皮肉さがある。

「あいつらは差別をした悪い人だ!」という考え方は、自分のことを棚に上げて、「実は自分も差別をしてしまってるんじゃないのか?」と問い直す機会を奪っている。そして、お前も「あいつら」と同じだろうと指摘されても、聞く耳を持たない。自分じゃ差別してないって、本気で思いこんでるから。

 

差別を常日頃、意識的にする人よりよっぽどマシなのは認めよう。でも、差別を真に解決するなら、まず「無意識的に差別をしてしまうことを認められない心の弱さ」を認識してこそなんじゃないか。

 

そういう意味で、残念ながらこの考えは、明確な根拠なしにはむしろただのイデオロギー(凝り固まった思想)としか表現できない。

そこから解放されるための手段はたった一つ。

 

問いかけよ。問い直せ

差別とは何か考えてみる。「どうして人間に、差別が起きてしまうのか」と。

自分の中にある心の弱さを自覚する。「今の表現、相手を傷つけてないかな。差別してしまってないかな」と。

公に正しいとされてる差別論を疑ってみる。「どうしてこの表現はよくて、あの表現は駄目なのか」と。

 

それはとても難しいし、ともすれば忘れてしまいがちだ。でも、差別とは何であるか問い直す機会を失ったとき、我々はまた「無意識的に誰かを差別する」という、動物的本能としての悲しき性に吸い込まれることになる。近代哲学が作り出した「人間の自由」という概念を、もう一度手放すことになる。

 

認めよう。無意識に湧き上がる差別意識を。心の弱さを。

認めよう。差別なき社会を作るのは何より難しいということを。

 

言葉を規制すればいいという問題ではない

「差別をしないように」配慮し過ぎた結果、言葉狩りに見えてしまうような事例というのが世の中にはある。

どっちが正しいか?というのを一個人に押し付けるのはあまり建設的でないように思われる。

 

そもそも、表現の問題というのは枝葉でしかないはずだ。ある表現が誤解を招く、差別的に受け取られかねないものだったとしよう。でもだからといって、その表現を使わなければ差別していいのか、というと、そういうことはない。

さっきも言ったように、差別かどうか決めるのは自分じゃない。相手や社会だから。

 

「きちがい」と言わなければ精神障碍者の人を差別していいのか。

「えたひにん」と言わなければ部落出身の人を差別していいのか。

決してそんなことはないはずだ。「左利き」はほめ言葉にも、差別用語にもなりうる。表現だけを規制して文脈を見ないのは本末転倒だ。

 

かりに表現だけを刈り取ったとて、人々の間に差別意識があれば、またいくらでも新たな差別用語が出てくる。もうキリがない。手厳しい言い方だけど、言葉狩りだけしかしない姿勢は政治家の「政治やってますパフォーマンス」とあまり変わらないと思う。自分の良心を誰かに見せつけるためだけにやってて、本当の解決には至ってないというか。

対策すべきのは目に見える表現ではなく、目に見えない意識だと思うよ。

 

 

まとめ。

「差別は駄目だ!」とだけ主張する姿勢はかえって危うい。なぜなら「駄目駄目な差別とやらを、自分もやってしまっているんじゃないか」と自分自身に問いかけてみるチャンスを失うことになり、無意識的に他人を傷つける(差別する)おそれがあるからだ。

 差別が駄目だと主張するときは、それなりの理由とか根拠も自分で考えてみよう。自分も何気なく差別をしたことがないか、振り返ってみよう。

 

結局じゃあ、私がどうして差別を悪いことだと思うのか、について触れてなかったので、いずれ書きます。いずれ。