ちしきよく。

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温泉(銭湯)にタオルつけるの有りか無しか考察



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近くに温泉施設があるのでたまに友人と入りに行くのだが、その友人と面白いことを話した。「温泉にタオルを浸けるの、ありかなしか」という問題だ。

 

私は「なし」派だったのだが、友人は「あり」派だった。

しかもこれ、結構「あり」派の人も多いみたいで、理由を聞いてみたら、「もともと温泉はみんなが体つけるし、タオルぐらいじゃ汚れないでしょ」「清潔なタオルなら浸けて良いと思う」とのこと。

2週間ぐらい考えたが、やはりどうにも納得がいかなかったため、こうやって書き起こして考察してみたい。

 

銭湯=私的空間と公共空間の交差点

タオルに限らず、温泉にはいろんな問題がつきものである。例えばタオルでなくても頭をつけるのはどうかとか、オシッコしていいか(特に男性に多い)とか、歯磨きしていいかとか、入れ墨の人は入ったらだめとか。

 

その理由として考えられるのが、銭湯自体の存在意義というか、存在する目的にまつわるものだと思う。すなわち、「裸になってお湯に浸かる」という行為そのものは極めて私的なのに対し、銭湯自体は公共的な場所である、というものだ。

これは銭湯だけでない、例えば化粧や通話を控えるべきとされている電車やバスも同じであろう。しかし「裸」というプライベートな恰好をする、……すなわち私的さの度合いが、他と比べ異様に高いのである。

 

この理由を起点に、前提に、考察を行ってみたい。

 

私的さと、公的さの割合問題

銭湯において起こり得る様々な問題が私的公的の交叉によるものだとすれば、その問題は極めて主観的なものと言わざるを得ない。

なぜならば、「タオルをつけていいかどうか」においての「フケツだから」「清潔ならいいでしょ」みたいなもっともらしい理由は所詮後付けであり、結局はその人が銭湯に対して感じる、「私的さ・公的さの割合問題」に全てが終着するからだ。

銭湯は公的な場所、と考える人ならタオルも頭もつけないし、歯磨きもしないし、なんならヒゲソリもしないかもしれない。体を洗ってお湯に浸かる、という、銭湯の最低限の存在意義以外を果たさないことは、容易に考え得る。

しかし銭湯が私的な場所とみなす人なら、洗い場で小便をしちゃうかもしれない。

 

問題が複雑怪奇に見えてしまうのは、結局は銭湯が主観的に公的にも私的にもなり得る、極めて特殊な場所だからであろう。

そこで今回は程度の問題として、これを片付けてみたい。

銭湯は両方の性質を持った特別な場所である、ということを前提において、「どこまでなら許容されうるか」ということを、考察してみようというのである。

 

どこまで許せるか?

そこで皆さんには、今から行ういくつかの質問に答えていただきたい。

主観だが、奥に行くほど「私的空間」の割合が強くなっていく。

ここでいう「認められる」は、自分の道徳観や衛生観念に照らしての、である。

 

 

「お湯に浸かる」ことは認められますか。

「お湯に頭を浸ける」ことは認められますか。

「お湯の中で局部を洗う」ことは認められますか。

「お湯にタオルを浸ける」ことは認められますか。

「お湯の中で放屁する」ことは認められますか。

「お湯の中で小便を行う」ことは認められますか。

「お湯の中で大便を行う」ことは認められますか。

 

さて、1番目は100%が「はい」と答えるであろう問題だ。これでNoなら、もはや何しに来たのかわからない。

これがYesなのは、当然ながら銭湯の存在意義に基づいている。トイレでトイレするなとか、店でもの買うなって言われないのと同様、銭湯は「お湯に浸かる」ための場所である。

すなわち、銭湯自体が極めて私的な性質をもつ場所であることには変わりないが、銭湯という基準に照らして考えれば、銭湯でお湯に浸かること自体、私的でもなんでもないことを示している。

図にしてみよう。

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電車も銭湯も私的空間であることには変わりがないが、電車の中で化粧をするとか通話をするとかいうより、裸になる、というのは、相当意識が強くないとできない。した瞬間タイホです。

しかし銭湯はもともと私的さが強い(言い換えれば公的さに対する私的さの比が大きい)空間であるため、銭湯で裸になることは別に私的でもなんでもなくなる、ということである。

裸になることとお湯に浸かることはほぼ同義と考えてよいので、同様に認められる。

 

しかし「お湯に頭を浸ける」となると、やや私的さの比は大きくなる。家のお風呂なら認められても、公的な場所で認められるかはわからない。髪の毛は一般に不潔だと思われやすいため、浸けるとなると……という人もいるだろう。

次の局部になると、もう少し程度が大きくなる。

頭よりさらに不潔とされるのが局部であり、人類の歴史でも、ここを公然と見せつけるのはタブーとされてきた時代が(数千年前からのカウントでいえば)長い。*1

一方で「何が悪いの?」という方もおられるだろう。良い悪いの話ではなく、主観により常識も食い違っていることを強調しておきたい。

その後「タオルを浸ける」がくる。ここから抵抗感が出る人がちらほら……と思われる。というのも、頭や局部は自分のものであり、体と一体化しているから、半不可抗的に浸かってもしょうがない一方*2で、タオルは完全に「私的所有物」だからだ。

 

そしてその次、放屁あたりから、強い抵抗感を示す人が多くなるだろう。

屁は自らの体内から出てくるものであるため、強く私的さが認められる。しかもタオル以上に不潔とされやすい。一度だけオッサンが放屁するのを見た。ゴボゴボ……と無味無臭(要出典)の気体がお湯の底部から上がってきたのを目撃したので、私は急いで上がった。

 

で、小便に関していえば、実際やってもバレないだろうとは思うが、もし友人が意図的にやっていたと知ったら、私は縁を切る覚悟である。昔水泳やってたときに、プールの水のある部分が黄色くなっていたのを思い出した。

いくら希釈されるとは言っても、他人の小便が薄くなったオシッコ湯に浸かりたいとは思えないものである。*3

大は……もう何も言えない。縁を切るというか、通報する。

 

さて、皆さんはどこまでがYesだっただろうか、私はせいぜい2つ目までである。

質問を受けるうち、「いやいや有り得んやろ」となったのは、恐らく5、6番目からであると思う。私的割合が大きくなれば実現可能性も高くなりそうなのに、どうしてこんなことが起こりうるのか。

 

私的さと実現可能性との矛盾

その理由は単純である。

「いくら私的でも、家でさえやらないことは公的なところでするはずがない」という理由だ。家の浴槽の中で小便をすれば、自分が汚れるからしない、よって公的な場面でもしない、というだけの話であろう。*4

 

すなわち先ほどの質問は、下に行けば行くほど私的さ(が公的さに占める割合)が大きくなるが、一方で下に行くほど「やらねえよ」率も高くなると考えられる。

ということはやはり、議論になりやすいのは、質問群の真ん中らへん……頭を浸けるとか、局部を洗う、とか、タオルを浸ける、であろう。

 

結局戻った気がしなくもないが、「なぜタオル云々で議論が巻き起こるのか」を考察できた気もする。

 

自論:やはり「なし」

頭や局部はまあ認めるにしても、タオルはもはや所有物である。これをめちゃめちゃ極端にすれば小便や屁になり、私的な所有物(あるいは空間)を大きく公的な空間に持ち込む、というのはある種「電車の中で化粧をする」「他人の乗り込むエレベーター内でゲップをする」というような、非常識さが感じられる。

公的空間における自己主張が激しいと、自分のパーソナルスペース*5が侵略された気がして、落ち着かなくなる。

 

そういうわけで、結論としては「なし」としたいが、浸けているのを見て友人を注意するほど心臓に毛が生えているわけでもないし、自分も同じことをやっていないか心配なので、これを以って戒めとしたい。

以上の話はあくまで「個人的考察」に留まるものである。決してお湯にタオルを浸ける方、放屁をする方を咎めるものではないので、ご了承いただきたい。ただし小便をするオジサンは帰ってください……

*1:人間が着るようになったのは数万年前のトバ火山の噴火により、火山灰が上空に停滞し、平均気温が5度以上下がったころぐらいだと聞いたことがある。アタマジラミとコロモジラミが分化した時期とおおよそ重なるらしい

*2:局部つけずにとかどうやって浸かるねんって話ですね

*3:推察してほしいが、客観性のない言い方をしているのは、私がこれを強く嫌悪しているからである

*4:もちろんマーライオンというか小便小僧のように、浴槽の外から中に向かってやってもいいが、間違いなく通報される

*5:人は誰でも、「ここまでなら他人に接近されていい」というスペースを持つ。親族なら狭く、他人なら広い。電車や男子トイレで席が一つ空くのはそういう理由である