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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

「論理的思考」は万能薬ではないかも【その1】



あとで読む

論理的思考について考えるの巻

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このブログは何より「論理」を重んじている(つもりですが)。

ブログにかかわらず、人に何かを説明するためには、まずなにより主張や説明に骨子が通っていなければならない。骨子になる一番簡単で強いもの―それが論理。

 

論理でないところで人を動かすのは割と容易い。怒り、憎しみ、呪い、悲しみ、恐怖、性欲、そういった強き感情(本能ともいう)を励起させる……言い換えれば、心の薄皮一枚剥がしたところにある部分を突いてやる……それだけでいい。

簡単な煽りでもヒトが動かされ、なにか一言ブクマに書かないと気が済まなくなることを考えれば、まあ自明だろう。もしくは、可愛いモデルさんの写真を取り上げた記事に無言ブクマがいっぱ……いや、何でもないです。

 

それに対し、論理的な記述、説明というのはなかなかむつかしい。本当に論理だけを突き詰めれば感傷に浸ることも許されない。言葉の定義も明確にせねばならない。

正直言って不自由だ。

だから、このブログで完全にできている自信は全くない。同年代の他の学生よりはしっかりした文を書けていた、書けていると自負するが、論理のとっつきにくさにはまだまだ慣れない。

 

それでも、論理の飛躍を自覚できるように推敲を重ねている。

そんな論理の弱点にはあまり注目してこなかったので、今日は自戒的な意味を込めて書いてみたいと思う。

 

論理とは

皆さんは論理をどんなものに捉えているだろう。

 

論理というのは自然科学、人文科学が何よりも大切にしてきたものであり、ある意味科学の「原理」と言ってもよいものであると同時に、意図的に身につけることの難しさを実感させられるものでもある。こんなに身近なものなのに。

 

論理とは何か、一から説明するのはかなり骨が折れる。

(以前生徒から「論理的に思考しろと数学の先生に言われましたが、どうすればいいんですか」と聞かれたことがある。かなり困った。)

 

辞書を引いてみよう。

議論の筋道・筋立て。

では筋道とは何だろう。

物事を行う時に踏む順序(に現れる理)。

理とは何だろう。

物事の筋道。もっともな事。道理。

 

というように、辞書でもその説明には四苦八苦している。恐らくだが、「石」を説明するときと同様な言い換えでごまかしているのではないか。

 

岩石のうち、割合に小さいもの。砂ほど小さくなく岩ほど大きくない、かたまり。

とはいうが、岩石をひくと

地殻を形作る物質。そのかたまり。

砂をひくと

岩石が細かく砕けて、小さな粒になったもの。

 岩をひくと

岩石のうち、大きなもの、特に、表面がなめらかでなく、ごつごつしているもの。

 とあり、結局「石って何なんだろう」と思った人は石についてずっと知れないという奇妙な状態に陥ることになる。まるでWikipediaを読んでいる気分だ。

 

そういう堂々巡りが起きてしまうという点で、論理は石と同じぐらい身近なものであり、また説明の難しいものだということをわかっていただけただろうか。

 

論理は思考の原理?

なぜ説明が難しいのか。それは、我々が普段から思考に論理を使っているからだと考えられる。つまり思考そのものが論理であり、当たり前すぎるからかえって本質がつかめないのだと。

 

例えば以下の文章を読んでほしい。

「一か月前に新しく携帯を買ったが、昨日壊れてしまった。画面が真っ暗なままで全然起動してくれない。だから明日は携帯ショップに行くつもりだ」

 

何かおかしいところはないだろうか?

 

ない。

ないよ。ない。何の変哲もない日記調の文章。

しかし、こう聞き方を変えてみるとみんな答えに窮してしまうと思う。

「なぜおかしくないとわかるのか」

と。強いて言えばこう答えるしかない。

「論理が繋がってるから」と。

 

じゃあ次はこの文章を読んでみよう。

 

「昨日カレーを作ったが、ルーを投入しすぎて辛くなってしまった。だから今日は携帯ショップに行くつもりだ」

 

おかしい。おかしすぎる。

「どこがおかしいのか」と聞かれると、今度はみんな即答できる。

「論理が繋がってないから」と。

 

上の二つの文章は文章であり、そこに何らかの絶対的な意味があるわけではない。両方とも日記のようなもので、個人の生活がありありと想起できるようなものだ。

そういう意味では同じなのに、なぜ我々は前者を「普通だ」と、後者を「どこかおかしいぞ?」と判断できるのか。

 

それはつまり、我々が普段論理を使って生活(思考)しているからに他ならない。それくらいに論理は私たちのたもとにあって、知らないところで私たちの思考を決めているのだ。

だからこそ、支離滅裂な文章は「論理的じゃない」と叩かれ、学術論文に「論理的である」ことが求められるのだ。

 

議論の筋道=論理

さて、たねあかしをしよう。意味不明だった下の文章だったが、実は私がある文章を書くのを忘れていたのだった。すまない。

 

「昨日カレーを作ったが、ルーを投入しすぎて辛くなってしまった。

『こんなにマヌケな間違いをしたことが面白くてしょうがなかったので友人に電話をかけようとしたが起動しない。故障か?』

だから今日は携帯ショップに行くつもりだ」

 

え、今度は繋がったって?うーん……

 

こんなことが起こる理由、それは論理の定義を思い出せばわかるはず。論理というのは『議論の筋道』のことだった。つまり、前の文と後の文が筋道立っていれば、あるいは文章全体で同じことを述べていれば、それが論理的だという判断を下すことができる。そしてさっきも言ったように、この判断はほとんど無意識的に行われている。

だから、「どうしてこの文章にはおかしいところがないのか」と尋ねられて、みんなが答えに窮するのも無理はないはずだ。

逆に、筋道立ってなければ、それが異常なものとして感知される。違和感を覚える。論理的な人というのはその穴を見つけるのが上手いというか、センサーが感知してしまう。

しかし、さっきのように穴が埋め立てられてしまえば、その違和感はすぐに消え去り、論理的な文章としての地位を手に入れることになる。

 

論理の妥当性とは

だがここで敢えて問う。

「筋道を立てる絶対的な方法はあるか」と。

言い換えてみよう。

「絶対的に正しい論理を確保するにはどうしたらよいか」と。

 

そしてそこからが実は今日のテーマなのだ。まあ次回にもつれ込むけど。

 

論理の妥当性を担保するものとは何なのか。筋道だ。

じゃあ筋道の正しさを決めるのは誰か。みんなだ。

みんな?みんなって誰だ?画面の向こうにいらっしゃる一人ひとり、私、あなた、彼、彼女、それらをひっくるめた全て。

でも、そのみんなが手放しで「正しい!」と言えるような論理なんて、この世にあるのだろうか?

 

もしないのだとしたら、この世に「自明」なんてものは一つも存在しないことになってしまう。そうしたら1+1=2だとか、「私は人間だ」とか、「人類は地球に住んでいる」みたいないかにも明らかそうなもの全てが実は「正しくないかもしれない」と結論付けられてしまうのだろうか。それってなんだかとても不思議というか、奇妙に思われる。

 

だってこの文明自体が、あるいは科学自体が、かならず何らかの「自明なもの」によって成り立っているのだから、言い換えれば「正しいかどうかもワカランものの上に、我々の生活がある」となってしまう。

 

まあこれは一種の言葉遊びみたいなもんで、実際は「現実問題として、そんなに複雑に根本的に考えなくても、なんとかなってるのだ!!」というのが答えで、人類全員が哲学者か数学者なら世界はとっくに滅びてるだろうなんて馬鹿げた推論を出すことができる根拠にもなっている(笑)

 

言葉遊びではあるけれども、「論理万歳!論理は絶対正しい!」なんて考えもちょっと危険かなと思うので、こうして記事にしている次第である。少々の知的好奇心で以って生暖かい目で見守っていただけるとかなり助かる。

 

とにもかくにも、「論理の絶対的な正しさを考えることはできるか?」という問いに答えを突き付けるところから次回始めるので、お楽しみに。(そんな人がいるかはわからんが……)

 

それでは。