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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

「誤用の一例だ!乱れだ!若者言葉だ!」とドヤ顔で叩く人いるけど



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今日はことばの話をしよう。ことばの誤用に関する問題だ。語用論ならぬ誤用論とでも言おうか。いや、誤用も語用論の一部か……。

というと、「どうせコイツが誤用をあげつらって終わりなんだろうな」と思われるかもしれないが、実は主張は逆である。読み進めてほしい。

 

 

誤用の定義

誤用だなんてみんな(主にマスコミ関係者)当たり前のように使っているが、この言葉の意味するところは何だろう。

誤用とは、

用法をあやまって用いること。また、あやまった用法。

 

面白いのは、誤用ということば自体、ほとんどが「ことばの誤用」という形でしか使われないことだ。ノコギリを間違って使うのは誤用とは言わない。恐らく誤使用だろう。

これはことばがいかに我々の生活に深く根付いているかを示しているように思われる。ことばに対する専用のことば……枕詞ならぬゆたんぽ詞、とでもいうようなことば―「誤用」なることば―を使っているのだから。

 

だが、誤用誤用とは言うけども、そもそも何が間違いで何が正しいのか、考えたことのある方はいるだろうか。私は「あまりいない」と思う。かなり辛口に言えば、マスコミから与えられる誤用例をただ盲目的に盲信し、アレは誤用だコレも誤用だなどというだけだ。自分で選択しているつもりで実は何も選んでいない。

 

誤用には二種類ある。文法の誤用と単語の誤用。この二つをひっくるめて誤用と呼ぶのだが、だからといってこの二つを混合してはならない。なぜなら単語の集まりが文章の構成であり、文章の構成に関する取り決めを文法と呼ぶからだ。

易しく言えば、文章(文法)は単語より一段階上なのだから、この二つを混合するのはあまりほめられたものではないように思われる。

 

文法の誤用はら抜き言葉、敬語の問題などが該当する。単語の誤用は単語それ自体の意味の違い……「世界観」とか「おもむろに」とか「雨後のたけのこ」などが思い浮かべられる。

 

ここでは、そのことばを誤用と言い切ってしまうことのおろかさ(難しさともいう)を、二つの例で以って示したいと思う。

 

ら抜き言葉

ら抜き言葉は若者の間違ったことばの使い方である、なんて刷り込みがマスコミによってされている気がする。ら抜き言葉は若者ことばだ、礼儀がなっていないなどとあからさまに若者の「ことばの乱れ」を叩く彼らだが、そもそもなぜ若者の間で新しいことばが生まれやすいのか。

一言でいうなら「大人よりコードに精通してないから」だと。コードというのはいわば取り決めのことである。抽象的な言葉(本、とか、概念、とか)を用いても互いに意味が通じるのは、我々がことばの裏にコードという取り決め(ルール)を持っていて、そこから相手のことばを読み解いているからだと説明できる。

難しいように思われるが、サッカーだと思えばいい。サッカーのルールを知らない人とサッカーを楽しめないように、ことばのルールを互いに知っているからこそ、コミュニケーションが成り立ち、楽しめるのである。

 

人間は成長するにつれ、ことばの取り決めをよく理解するようになる。こういうときこのことばを使うんだなという「ルール」が個人に蓄積され、その結果正しいことばを扱える。文法の煩雑さや単語の長さによっておおよそ言語の間でも年齢比の理解度は変わってくるようだが、この傾向は人間にとって共通と言って差し支えない。

 

子どもは大人に文法や単語のミスを指摘されながら、コードを蓄積させていく。ら抜き言葉もそんな時期に現れた一つのことばの使い方である。大人より若者のほうがよく使うのは当然だ。その大人が子どもの頃にはら抜き言葉なんてなくて、らを抜かないのがいわば常識だったのだから。

そして、どうしてら抜きされるようになったか。理由のひとつに「合理化」がある。ことばをより使いやすくするために人間が無意識的に行う手段の一つである。合理化を叩いてはいけない。かつてラテン語という煩雑な文法の上に成り立つ言語と土着言語とがミックスされて生まれたのが今のフランス語、スペイン語、イタリア語である。文法の煩雑さはそのうち「合理化」によってより簡略になり、今のそれらの言語の文法になったと思われる。合理化を叩くならこの流れも追究せねばならないのだ。

難しいからひとことでまとめてみよう。「こうしたらもっと楽じゃね?」と考え、意識せずにことばを変えていくのだ。

 

例えば、そう……「食べられます」という文を読んだとき、これが可能なのか尊敬なのか一目ではわからないが、「食べれます」というら抜き言葉を導入することで、一目で可能か尊敬かが見分けられる。というのも、ら抜き言葉を使うのは、若者にとってより身近である「可能」のときだけだからだ。

そうやって一文字減らすことで、発音も楽になるし、見分けも楽になるしで、すごく合理的なのである。

 

食べれるに違和感を感じる人は多い。では、見れる、来れるについて、日ごろから可能の意味で見られる、来られると言う人はどれくらいいるだろう?実感、ほとんど、いや……身近には全くいない。

なぜか?そっちのほうが楽だからだ。ら抜き言葉を叩いてきた大人も、次第にその楽さに気が付き初めたのだ。

まだコードに精通していない若者のことばが、逆に大人のことばの秩序をも変えてきた例だといえるだろう。

 

実は今市民権を得たことばも、昔結構揉めていたものがある。その一つが「AR抜き言葉」だ。読めるとか蹴れるとか行ける、今では正しく使う人もほとんどいない。

もともとYOM"AR"ERUだったが、"AR"がなくなってYOMERUになった。

KER"AR"ERUがKERERUに、IK"AR"ERUがIKERUになった。

これも確かにら抜き言葉の一つだが、食べれるを叩いてもこっちを叩く人はいない。

少なくとも、「ら抜きは誤用だからやめろ」と主張する人は、AR抜き言葉も叩くべきだと思うのだが。

 

さて、ここまで聞いてまだ「ら抜きは誤用だ!誤用だから認めない!」なんて石を投げられるだろうか。それともイエス様にお出まし願おうか。

確信犯

有名な例だ。本来「政治的思想的な確信に基づいて行われる犯罪」のことなのだが、今では「自分がやったのだと確信して行われる犯罪」を指すようになっている。

確信犯ということばが間違って使われるのを見たら沸点突破しちゃう人がいるのだろう、「確信犯、それ誤用だからな」とすかさずツッコミが入るのを見る。特にネットでは。

だが、確信犯ほど誤用がまかり通ったことばはもう、正しいとされる意味で用いたとしても通じなくなってきている。だとすればそれは本当に正しいのだろうか。

通じない正しさなど、言語においては何の意味もない。極端な例だが、現代で「読まんとす」とか「あやしうこそものぐるおしけれ」なんて言う人がいたらと想像するといい。それらは確かに当時は正しいとされていたが、今ではもう通じない。

だとすれば、そのような時代遅れの正しさを引きづって、意味もなく誤用とあげつらう姿勢は、むしろ非生産的に思われる。

 

誰が誤りを決めるか

さて。誤用はほんとうに誤用なのか……?と、お読みの皆さまが疑心暗鬼五里夢中になってきたところで、問題の提起をしてみむとす。

「誤用は誰が誤用と認定するのか」という問題だ。

 

天皇だろうか、総理大臣か、それとも辞書の編纂者か。金田一先生か。いずれも違う。

その答えはみんな、だ。

スケールでかっ

 

よく誤用のアンケートがされていて、何%の人が誤用だと思いました~だのなんだのやっているが、そんなレベル―標本調査レベル―ではない。日本語を話す人全員だ。外国人も含むよ。

今まで誤りだとされてきた文法や単語の誤用を認めたのは誰か。一方で頑なにことばの変化を認めないのは誰か。せっせと日々新しいことばを作っているのは誰か。

 

みんなだ。

スケールでかっ

 

だから、「〇〇は誤用だ!」なんて一個人が騒ぎ立てても、状況は全く改善しないのである。結局どこまでが誤用でどこからが正しいか、というのは恣意的な線引きにすぎない。しかも人によって線引きは全く違う。正しさを決めるのはみんなであり、みんなの意志、合意がなければ、ことばは変化しない。(まあ実際はそんなカッコいいものではない。なんとなーく正しいとなんとなーくみんなが思ったものが、なんとなーく正しい扱いされて市民権を得ている、ぐらいのものだ)

 

我々がことばを使う限り、ことばの使い方に「絶対」なんてないのである。

 

変化と呼ぼうぜ

だから、誤用の代わりに「変化」という表現を用いればいいのではないか、と最近思っている。ことばが絶対的に正しいという無意味な土台で議論するのではなく、ことばが変化することをちゃんと意識しながら使い方について話すのである。

一応言っておくが、変化という表現になーれ!と押し付けているのではない。これは比喩であり、焦点は「ことばは生き物である」とみんなが意識することにある。誤用か変化かなんて、ある意味どうでもいいのだ。

 

何回も強調するように、ことばは常に変化し続ける。(言い換えれば、ことばの本質は変化だ)だから、その一コマだけを切り取って正しさを決めつけたり、ましてや価値を測ろうとするなど言語道断。

若者言葉であってもことばはことばであり、みんなが正しいと認めれば使われていく、それだけのことである。ことばはすべからくそういうものだ。

変化なき言語があるとすれば、それはおそらく人間が使うのに値しない。誤用も勘違いミスも生まれないかわりに、新しいことばの使い方は生まれない―まるでモールス信号や交通信号のような―ツマラナイ自然言語になることだろう。

それは確かにコミュニケーションとしては理想的かもしれないが、そこになんの創造性も生まれない。そしてそんな言語は―文化的な営み(つまり創造)をしないと生きていけない人間にとって―最低の言語だ。

 

なぜ誤用を叩くのか

こうやって書いてきたが私は誤用を注意することを悪いとは決して思わない。誤用によって信頼関係がなくなることも多いにありうるし、また見てきた。年上にら抜き言葉を使えば嫌われる、というのが例だ。親がら抜き言葉を咎めることの何が悪いだろう?

 

なぜヒトは誤用を叩くのか。それは単に、そのことば遣いが不快だからである。

難しい言い方をすれば、今まで積み重ねてきた秩序に無秩序が現れれば、それを排除したくなるのは当然だから、である。

そして、なんとなくみんなが不快だと思ったものが、現在誤用の一例としてあげられている。ふいんき、とか、ぜいいん、とかね。

人が誤用を叩く理由は他にはない。親がら抜き云々の例えも、そもそも親が「ら抜き言葉を公的な場で使うのは不適切だ、不快だ」と思っているから子どもを咎めるのであって、不快だと思っていなければ何も注意しないだろう。

極論、「公的な場で日本語を使うな」と注意しないのは、「公的な場で日本語を使うことを不快だとは思っていないから」にすぎない、それと同じである。

 

だから嫌なら「その言葉遣い、ちょっと耳に残るからやめてくれ」と言えばいいのである。人が誤用を許さないのは不快だから以外に理由がない。いくら理屈付けをしようが、全員の共感があろうが、結局は自分が不快だからにすぎない。

それは……国民の99%がカレーが好きだという事実が、自分のカレーの嫌いさには影響しないようなものである。誰が何と言おうと、不快なものは不快でしかないのである。

 

そこを無理にかっこつけて「誤用だ!みんな不快に思ってるから改めるべきだ!」というから、おかしなことになる。「コイツことばが生き物って知らないんだな」と、私のようなメンドクサイ人に絡まれて叩かれることになる。

 

この言論も

ちなみにこの言論にちょっと納得しかけた人は危うい。私の意見でさえまた一つの意見にすぎない。何かといえばつまり「誤用という言葉の使い方は誤用だ」とでも言おうか。手持ちのブーメランをそのまま自分の頭にぶっ刺すゼロ距離投擲を行っているからである。

私が誤用を誤用とあげつらって叩くのもまた、それを不快に感じたからに他ならない。

ぜーたってめんどくさい奴

 

さあ最後に答え合わせをしよう。この文章に誤用は何個あっただろうか?

それに全て気が付いた人は「誤用ソムリエ」に認定しよう。賞状を渡すから我が家に来てほしい。10個あれば正解だが、ゲーメストのようにならないか少し不安ではある。

(※ゲーメストというあまりに誤植が多いゲーム雑誌があった。某カーレースの「くぉーぶつかる!ここでインド人を右に」「スーパーラリアッ上」などの信じられぬ誤植を生み出した親だ。ある時、『この本には一つだけ誤植が隠れています。見つけられたらプレゼント!』という企画を自信満々にやったのだが、想定していた答え以外の正答が多数来たせいで、プレゼント企画は失敗に終わってしまった)