ちしきよく。

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【ポリコレ】「女流作家」は女性差別?



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この前、好きな小説家について友人と話していた。私は結構有川浩が好きだ。クタクタになるまで煮込んだイチゴジャムみたいな甘さがたまらない。

ああいう恋愛をしてみたかった。

それはどうでもいいんだけど、彼がふとこんなことを言いだした。

「女流作家ってコトバ、なんとなく好きじゃないわ」

 

へぇ~世の中にはそういう人もいるのかと思ったので、ここに記す。

決して友人、もしくはこの類の方々を貶そうというつもりはないので、ご理解願いたい。

 

「女流作家」は女性にしか使えない

結局どうして彼がこの言葉を嫌っているのかというと、どうやらこういう理由らしい。

「女流作家という言葉は女性にしか使えない一方で、作家という言葉は男性にも女性にも使えるよね」と。

 

……うーん?ならいいんじゃないの。特別って感じで。

 

どうやらそういう問題ではないとか。

きいてみると、私も事情がつかめてきた。 

「つまり、作家ってのは暗に男性がするべきもの……って思われてるってこと?」と聞くと、彼は首を何度も縦に振った。

 

これは有徴、無徴の問題だな。

 

有徴と無徴

有徴、無徴ということばは主に言語学で使う専門用語で、定義は

 

「一方は対立が中和された項、もう一方は本来予想される対立を保持したままの項という二つが対立を構成するとき、前者を無徴、後者を有徴という」であるが、これだとよくわからないので、分かりやすく説明してみたい。

 

例えば、英語のmanとwomanが無徴ー有徴の関係にあたる。

中学生に意味を尋ねると、manは男で、womanは女だと答える。

 

だがこれは正確には違っていて、manを女に対して使う場面というのもある。

高校生ともなれば、manに「人間」という意味があることをどこかで知るだろう。

 

つまり、対応関係を図にすると、次のようになる。

 

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この二つをまとめてどう呼ぶか。英語では確かに"human"とか"human beings"という便利な表記があるが、これはどっちかというと「(他の動物と比較しての)人間」というニュアンスがあるようだ。

本来は、manとwomanとをまとめる表記法として、

 

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"man"が使われてきた。

 

対立の中和とか対立を保ったまま、というのはいわばこういうことになる。

 

本来男と女は別々の単語があてがわれ、(これを「対立」という)どちらかがどちらかを包含する関係ではないはずだ。しかし現実"man"は、男も女も表すことができる。つまり対立が中和されている。

"woman"は逆に、"woman"と書いて女を表すことはできるが、男を表すことはできない。そういう意味で、「対立を保ったまま」だ。

 

そして、一応包含関係はあるものの、この2つの単語は性に関して「男」と「女」という対立を構成している(と考えられている)。そのとき、対立が中和した項……manのほうを無徴、対立を保ったままの項……womanのほうを有徴、と呼ぶことにしているわけである。

 

女流作家は有徴か?

そこで、話を戻そう。

女流作家ということばについてだ。

これは有徴だろうか、無徴だろうか、それとも、どちらでもないだろうか。

 

 

 

答えから言えば、これは有徴である。

 

下の図を見れば一目瞭然だ。

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作家ということばは男にも女にも使えるが、女流作家と言った場合は女にしか使えない。そういう意味で、女流作家は対立を保持したままの項で、作家は対立が中和された項である。よって、女流作家は有徴ということになる。

 

その他の有徴項と無徴項

しかしそれだけでは話が盛り上がらないので、他の例を紹介しておこうと思う。

ただし身近な日本語と英語に限定する。(ヨーロッパの言語であれば、有徴、無徴の問題はすごくたくさん転がっている)

 

まず、"father-mother-parent"のトリオ。これも有徴と無徴。

この場合、fatherは「父親」、motherは「母親」である。そして互いに対立の関係にある。両者は有徴。しかしその対立を中和する項がparent「親」だ。

parentはfatherにもmotherにも使えるから、無徴。

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当然ながら、日本語も同じ。

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次に、動物。"dog-bitch"のペア。これも有徴と無徴。

"dog"はオスの犬、メスの犬両方を表すことができる。しかし"bitch"はメスの犬だけにしか使えない。

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次。"horse-mare"のペア。"horse"はオスでもメスでも使えるけど、"mare"はメスの馬にしか使えない。

あとは、"lion-lioness"のペア。"lion"はオスでもメスでも使えるけど、"lioness"はメスの馬にしか使えない。

 

少々珍しいものの、逆のパターンもある。

"drake-duck"がそれだ。

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お気づきだろうか。先ほどまではオスのほうの項がオスメスを取りまとめていたが、drake(雄鴨)はオスのときにしか使えない。この場合、drackとduckとをまとめる項としてduckがあり、逆転している。

 

もう一つダメ押しで、"drone-bee"の例も挙げておこう。

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 まあこういう例もあるよということで。

 

「身近だったかどうか」でしかないのでは

「女流作家」は別に女性差別には当たらないというのが私の考えである。

周りの女性何人かにも聞いてみたが、「うーん考えすぎじゃないの?」「いや別に」というような回答だった。

 

このことばに差別意識を感じるのは自由であるが、言語における有徴・無徴の問題は、あくまで「どっちが身近だったか」というものでしかないだろう(もちろん英語の"man"が人間なのは女性差別だ!というような例外もあるだろうが)。

 

その文化における必要性が語彙をつくる、というのが言語学界での考え方だが、なかなか一般の人からの理解は得られない。

一応根拠を述べておくと、イヌイットの人々は、「雪」を表すことばをたくさん持っていたり、日本人は「雨」をたくさん分ける。

いずれも、その土地での暮らしに非常に身近だから、区別する必要性が出てきた、というだけのことであろう。もちろん全てがそれで解決されるわけじゃないが、たいていは。

 

であるから、女流作家ということばは本来差別する意図を含むものではないし、ましてやどちらかを意図的に蔑むために誰かが人為的に作った、なんて表現では、決してないと思う。

 

あくまで、作家に男性が多かった(事実、明治時代の文豪を考えると、だいたいが男だろう)ことから、女性のほうが珍しかったため、女流作家ということばが生まれたのであろう。女流棋士となればますますこの考えの正しさを示しているように思われる。

 

「オカミ」は女将と書くが、男将とは書かない。(若旦那とは言うが)

これだって同じようなものだ。あくまでその職業に女の人が多かったから、というだけのことで、どちらかを差別するためのことばではなかった。

女中は差別表現にあたるとして使われなくなったが、女将は別に良いようで、一貫性もない。

 

そういうわけで「女流作家」は女性差別を意図しないことばであると思う。

 

直ちに使ってよいかは別問題

しかし、ここからが難しい話になるのだが、「差別を意図しない表現」と、「真に差別的ではない表現」とは、なかなか折り合いが付かない。

 

この、真に差別的でない表現、というのは、英語でpolitical correctness(略してポリコレ)という。「政治的な正しさ」という意味。

この世界ではおなじみであるが、検索ヒットの方々のため、ここで紹介しておきたい。

ポリコレで以ってことばを無理やり矯正しようとすることを「言葉狩り」ともよび、この行為もある程度叩かれている。

 

例えば女流作家ということばひとつにとっても、まず

「女流作家ということばを差別的と思わない人」がいる。

それに対し

「女流作家は差別だという人」もいる。

さらに、

「女流作家が差別的とみんなが思っていることを知ってわざと侮蔑的に使う人」もいるし、

「女流作家を侮蔑的に使う人は侮蔑するが女流作家ということばは侮蔑しない人」もいるわけだ。

「女流作家という表現は差別と思わないけどみんな差別と思ってるから別のものに書き換えよう」という考えの人もいるし、

「俺は差別と思ってるけどみんな差別のつもりで使うんじゃないんだから女流作家でよくね」という人もいる。

 

ややこしい。

 

そういった様々な人間の価値観を超越した(あるいは妥協したと言っても過言ではない)表現が「ポリコレ」なのだから、これを強制することもまた問題になりうる。

かといって『一般的に言って』差別的な表現を野放しにすると、差別が助長されかねない。

 

私がここで結論を決められるような問題でないことが直ちにわかるだろう。

 

いつもネットでPCについて揉めているのは、そういう議論をしたがる人たちがインテリで面倒だから……という理由だけではない、ことばという存在の一般性に対し、事象や立場が膨大すぎるのである。

だからこそ、我々ことばを扱う人間は、そのテーマを矮小化したり針小棒大に捉えたりせず、自らの問題として自分ながらに咀嚼し、理解していく必要があると思う。

 

こういう例は日常にも数多く存在し、女流作家もそのひとつには過ぎないわけだが、これを考察の一端としていただければ幸いである。