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なぜ近親相姦(インセスト)は禁忌(タブー)なのか【その1】



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構造主義って何だろう

今日は久々に堅苦しいことを書いていく。

タイトルで釣られた方も多いかもしれないが、別に私独自の見解を述べようというわけではなくて、一昔前に流行った「構造主義」、そのもととなるレヴィ=ストロースという人類学者が唱えた説をわかりやすく解説していこう、という趣旨だ。

ええい、もっと簡単に語れんのか!!草生やせ草を!草をwwwww

くっさ(草だけに)。やっぱりやめとくわ。

 

 

近親相姦(きんしんそうかん)ってのはいわば「自分のキョウダイや親、子供など、ごく近い血縁関係にあるものと関係を結ぶ」ことだ。これ以上深堀りするとGoogle様に怒られるからやめとく。

 

性的な話ではなく、ごくまじめな学問の話だ。

そもそもサイトの趣旨からして違うと思うし、そこらへんはご理解願います。

 

 

 

で、たまに話にあがるのが、「どうして近親相姦は否定され続けてきたか?」という謎ね。

まあ、本当に近親相姦が長い目で見てタブー……少数派だったのか?ってのはおいといて、語ることさえタブーになってる、ってのは、皆さんも実感はしていると思う。

 

 

私は以前から、「そりゃあさ、自分のキョウダイとか親と……ってのは、やっぱり遺伝的にも悪い影響あるし?道徳的にも悪いし?」なんて思ってたけど、しらべてみるとそういう理由だからでもないらしくて、私の考えてた説では説明がつかないことも世の中には多くあるのだとか。

いとこ婚は日本では法律的にも認められているけど、例えばアメリカでは25の州でいとこ婚は禁止されている。

 

ほかの国でのイトコ婚の扱いを見てみると、アメリカでは州によりイトコ婚が禁止されている州(25州)とそうでない州がありますが、イギリスでは特に禁止されていないとのこと。

 

news.livedoor.com

また、以前の中国や韓国ではもっと厳しく、いとこ婚どころか、「父系の親縁集団」どうしでの結婚なんて認められていなかった。

文化によって「近親」の意味というか、広さはだいぶ違うのだ。

 

 

だが世の中には不思議な人たちがいる。

「父方のイトコとは結婚したがらないのに、母方のイトコなら喜んで結婚する」とか、「父方のイトコや母方のイトコは嫌だけど、その両方のイトコなら結婚できる」という何とも不思議な慣習をもつ民族がそれ。アフリカにもオーストラリアにも南アメリカにも、ともかく世界各地でこういう考えをしている人たちが住んでいて、それは俗に「未開人」と呼ばれてきた(いる)。

 

そして以前のヨーロッパ人たちは、「やっぱり未開人は頭が悪いから、こういう無意味な風習をいつまででも受け継いでるんだな」と、彼らを軽蔑するかのような価値観を持っていたわけなんだけど、これを否定して、「いやいや、同じ人間なんだからさ、同じ目線で見ようよ。文化に優れた劣ったなんて、存在しないんだよ」という考えで塗り替えたのが、レヴィ=ストロースという人だ。

 

そしてそういう考えを、構造主義(こうぞうしゅぎ)という。

 

 

だがその前に、前提となる知識を見ていこう。

 

 

クラ交易の「贈与」

パプアニューギニアの東端の島々で、世にも奇妙な風習を受け継ぐ人々がいる。その風習こそ「クラ交易」であり、これがいずれ近親相姦のタブーの話に繋がる。

まあ簡単に言うと。

貝殻でできた首飾りや腕輪を、島々で交換し合う!という風習だ。

具体的に言えば、右隣りから首飾りが回ってきたら、それを届けてくれたお礼に、腕輪を渡す。豪勢な料理でおもてなしする。

そして自分たちはというと、隣の島にその首飾りを届けるため、左側にえっちらおっちら、船を漕いでいくのだ。サメに食われる危険もあるのに、大層なことで。

腕輪もまた、いろんな村を巡り廻って、最終的に手元にかえってくる。

 

 

……つまり、彼らは全体として、何の仕事もしていないことになるのだ。

数年スパンで首輪や腕飾り(と、その他の装飾品)を一周させただけ。

 

 

だが、これを「頭のおかしい未開人だ」と切り捨てず、まじめに研究したのがモースという人。彼はこの交換のウラに、何かちゃんとした、彼らなりの論理があると考え、その研究の成果を「贈与論」(ぞうよろん)という本にまとめた。

 

その結果、一つの答えにたどり着いたのだが、これが面白い。

ムダな争いを防ぐため、なんだとさ。

 

なぜなのか。ちょっと解説してみよう。

 

与える義務、受け取る義務、返礼の義務

贈与というのは「贈り与えること」だが、この背後にはどうやら3つの義務があるらしい。それが与える義務、受け取る義務、返礼の義務。返礼ってのはお返しのこと。

 

与える義務を守らないと礼儀に反すると思われる。

受け取る義務を守らないと、相手への不信感を抱いているとみなされる。

返礼の義務を守らないと、族としてのメンツを失う。

 

そういう後ろ向きな理由で、彼らは交換し合っているらしい、と。

逆に言えば、みんながこれを実践すれば、互いに『友愛関係』とまではいかなくても、「オレ達、お前の村に敵意ない」ぐらいは表明できるのだ。

だから、余計な争いをなくすことができる。

 

……とは言っても、じゃあ結局、「どうしてわざわざ貝殻なんて価値のないものを交換をするの?」と聞かれると、それは認めざるを得ない。答えられない。

貝殻そのものは食べられるわけでも、着れるわけでも住めるわけでもない。

 

だがモースは言う。そうじゃないよと。

「価値がないように見えるのは、我々が島々に住んでないからであり、彼らにとっては価値があるものなんだ。そしてその価値は貝殻そのものに宿ってるんじゃなくて、交換するから価値が生まれるんだ」と。

この言葉は結構大事なので、覚えておいてほしい。

 

そう、我々に彼らの財物を「価値がない」と嘲る資格はない。なぜなら皆さんが捕まえて放そうとはしないソレ……諭吉様だって、もとはと言えばただの紙切れにすぎないのだから。価値のないものなのだから。不吉な例えだが、明日いきなり日本がつぶれれば、その紙切れはもう二度と使えないのだ。

 

にもかかわらずみんなが諭吉様を愛するのは、他でもないその紙切れに「一万円分の価値があると、日本国が保証します」という約束を取り付けてあるからだ。

そして金は金自体に価値はなく、「何かと交換すること」でしか、その真価を発揮できないのだ。

 

クラ交易でいうところの貝殻も、我々が使う貨幣も、交換というシステムの上に成り立つ「見なされ価値」しか持っていないのである。(造語です)

 

逆に、見なされ価値以外の価値を、交換されるもの(媒体)が持っていたと考えよう。

……例えば、食べ物とか水とかね。

その場合、みんな飢餓や干ばつに備え、蓄え始める。蓄えれば誰も使わなくなって、結果社会は回らなくなる。つまり誰も生活できなくなる。

交換に使うのならば、それそのものに価値がないもの……装飾品とかのほうが、都合がよいのだ。

 

 

この考えをレヴィ=ストロースさんは応用し、自分の研究に組み込んだわけだけども、肝心な話はまた次回。お楽しみに。