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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

凶悪な犯罪者には人権なんていらないんじゃない?



あとで読む

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このまえこういう記事があった。

www.ikigaisagashi.com

id:butao_oさんのお書きになる記事は(いつも結局ソッチ系に着地するところが)好きだけど、さすがにこれは一線越えているように思われる。見過ごせないというか、重大な誤解をされているし、与えてしまっているようなので、今日は「人権」について取り上げてみよう。

 

再犯率のデータ(本当に再犯率は高いか)

まず、元記事での

性犯罪者の再犯率は約50%と言われております。

という統計の話。上エントリは全てこの再犯率の高さを論理の根拠として議論を進めている。この数字はソースが不明なのでよくわからないが、平成27年度の犯罪白書によれば、

 

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(平成27年版 犯罪白書 第4編/第1章/第1節/1)

一般刑犯法(刑事犯罪法全体から道路交通法違反を抜いたもの、殺人とか窃盗とか器物損壊とか痴漢とか)で検挙された人の再犯者率は年々増え続け、平成26年には47%……ほぼ50%となっている。

ちなみにこれは再犯率ではなく、再犯者率

「再犯率」は,犯罪により検挙等された者が,その後の一定期間内に再び犯罪を行うことがどの程度あるのかを見る指標である。これに対し,「再犯者率」は,検挙等された者の中に,過去にも検挙等された者がどの程度いるのかを見る指標である。

平成28年版 犯罪白書 第5編/第1章/第1節/コラム

 

たとえば今年処分された犯罪者は A さんと B さんの二人だったとします。A さんは再犯で、B さんは初犯です。この年の「再犯者率」は 50% です。翌年には A さんと C さんが処分されました。A さんは当然再犯、C さんは初犯。この年も「再犯者率」は 50% です。こんな感じで毎年 A さん + 別の初犯の人が処分される、というのが 10 年続くとすると、「再犯者率」は毎年 50% ですが、「再犯率」は約 9% になります。

再犯者率とは - はてなキーワード

上の例がわかりやすい。よくマスコミが「再犯率が高い~」という報道をするけど、再犯者率と間違っていることがありうるので注意しようね。再犯者率の高さから、再犯率の高さを導くことができないことがわかると思う。

 

だから、今まで話してきたように、「性犯罪者の再犯率は50%」という数字の信ぴょう性は疑わざるを得ない。再犯率とはいっても、例えば「一定期間」をどうとるかだけでも、数字は変わってきてしまうし、「一回目の犯行をした人が、二回目に及んだ」ケースと、「複数回犯行したことのある人が、またまた犯行した」ケースでも、やはり再犯率は変わる。

 

結局、再犯率は50%というデータに出自があったとしても、初期条件が提示されていなければ、「性犯罪の再犯率は高い」と主張することはできないはずだね。まあ再犯率と再犯者率を取り替えちゃってるというのも十分考えられるけど。

 

むしろ、この記事のブクマにあったpdfファイルによれば、

罪名ごとの再入者の前刑罪名別構成比につ いて,最近 20年間の推移を見ると,その傾向に大きな変化はなかった。

強姦について,同一罪名再入者(再入罪名と前刑罪名が同一である者をいう。)の割合は 27.7%,同種罪名の強制
わいせつが前刑罪名である者の割合は 7.3%である。

http://www.moj.go.jp/content/001162857.pdf (31ページ目)

とあり、これは窃盗の73.8%、覚せい剤取締法違反の72.8%、詐欺の49.5%に比べれば大分低い。

ということで、そもそもの土台から崩れちゃったわけだけど、この後人権に関してとんでもない誤解をされているようなので、それも書いていく。

 

人権とは何なのか

どこかの廃村や無人島などに、金さえ払えば本来なら違法であるレイプをやり放題の「レイプ特区」を作り、そこでレイプされる性奴隷として重大な犯罪を犯した受刑者を強制的に派遣するのです。

(中略)

受刑者の人権?そんなものは知らない。正直者がバカを見るような現代社会には、このくらい強烈な改革を行わないと、このままでは我々のような善良な国民が損をするだけの、ある意味激しい人権侵害を受けてるのにも等しい状態なのですから。

 

人権というのが何なのか、振り返ってみよう。

 

現在日本で当たり前のように思われている「言論の自由」「仕事を選ぶ自由」「所有する自由」などは、当時のヨーロッパでは認められてなかった。

しかし、近代哲学くんが頑張ってあれやこれやしたおかげで、「人間の本質は自由であるよ」ということを示しちゃって、それまでの制度……一部の高貴な人間が、大多数の貧窮した平民たちを権力や金にモノ言わせて支配するという制度がひっくり返された。つまり、みんなで社会を作っていこうよ、という姿勢になったんだ。

自分がもつ「自由」をいったん外に預ける。外というのは統治機関(国とか政府とか)ね。この統治機関はいろんなことを決めたり変えたりする権力をもつ。そしてこの権力で以って全員が自由を確保できるようなルールを作るんだな。

 

つまり何か。民主主義だ。

そして民主主義を確保するためにはとある条件が必要になる。

それは人間同士の平等だ。

一人の人間は他の大多数と同じ人間であって、何の優劣の差もないはず。

つまり一人の人間が絶対的権力を手にしたり、逆に不当な扱いをうけて自由を侵害されたりすることがあってはならないと認めることを意味する。

 

選挙を例にしてみよう。お金をいっぱい稼いでいる人には一人10票与えるけど、所得が200万円以下の人は0.5票にします、なんて決まりができたらどうだろう。それはもう民主主義じゃないよね。

だって「お金持ちに有利なルール」が出来上がっちゃうから。自分が預けたはずの自由が戻ってこない貧困層の人たちにとって、これは「平等」ではない。

人間が平等と仮定することで初めて、「自分の自由を統治機関に預け、統治機関が全員の自由を確保して個々人に還元する」ことが可能になるんだな。

 

そして、人間が平等だと仮定してから認められる権利を人権と名付けた

こうして人権がこの世に生まれた。

 

 

世界人権宣言の第一条。

「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」。

近代哲学が苦労のすえ手に入れた成果をこれほどまでに簡潔に、それでいて的確に表していることばは見つからない。

人間は生まれつき自由で、平等なんだ。政治に参加して、ルールを決める権利を持ってるんだ。人権を持っているんだ。そこに例外はない。たとえ犯罪者だったとしても。

 

人の権利を踏みにじった者に人権はあるか

ここから難しい話になるよ。犯罪者、つまり「人の権利とか自由を踏みにじった者に、人権を認めるべきか」という問題。これの答えは当然「ある」になるはずなんだけど、ここを誤解している人が本当に多い。

 

答えの理由もやっぱり人間の平等で説明できる。

つまり、「誰でも過ちを犯しうる」からなんだな。

過ちを犯すってのは人の権利を踏みにじることよ。

まずかったのはこの部分だった。自分や自分に関する人たちを考慮の外に出してしまったとき、この極端な「犯罪者に人権を認めるな」という言説が出てきてしまう。

 

例えば。

「自分や自分の家族が、死ぬまでに重罪を犯さない保証がありますか。根拠がありますか」と聞かれれば、誰も聖人君子じゃないから、「うーん、10年もすれば人間は変わっちゃうから、捕まってないなんて保証はないぞ?」って。私も自信がない。

 

だから犯罪者にも人権を認める必要があるんだ。いつか自分が犯罪者にならないなんて保証は誰もできないから。「かっとなって刺した」という言葉みたいにね。

 

じじつ、法律では「限りなくクロに近いシロ」の人にでも、罪が確定するまでは無罪として取り扱う「推定無罪」の考え方があるし、何人も人を殺した犯人でも、弁護士をつけて裁判で弁護してもらう権利がある。

 

上エントリの議論に合わせて言えば、「自分とか親族が性犯罪者にならない」という保証もないのに、「性犯罪者の人権を認めるな」という言説が受け入れられるか、という話だ。自分や自分の家族が特区に入ることもいとわないなら認められるだろうけど。

 

被害者の感情と刑罰の重さは別である

残念ながら、被害者や被害者の家族が「許さない!!」ってどんなに思ってても、それは刑罰の判断の一思考材料にしかなりえないし、平等を期すため加害者の感情も考慮される。

判決が被害者サイドにとってどんなに理不尽な結果だったとしても、加害者を含む誰にでも人権を認め、法律でもってそれを保障する限り、裁判という「ルール」で以って規定されたことに、両者従わなきゃいけない。

 

刑罰を復讐とみなす考え方も正しいけど、完全なる復讐として実現されることはない。むしろ「社会の秩序を乱さないため」といったほうが正しいだろう。

なぜなら加害者のほうにだって人権があって、加害者を裁くための「法律」でその人権を守っているから。

だから、法律という「みんなの権利を守るためのモノ」を個人の感情だけで取り扱うことがあれば、それはまさに民主主義の崩壊に他ならない。

絶対的権力の行使、独裁政治、天安門、ウッ、頭が痛い……!

 

そういうわけで、性犯罪者のことを許せない気持ちは120%共感できるけど、それを実行するとなると、反対がいっぱいくるのは当然の話。

※ココ大事。私は決して加害者のことを許しているのではない。感情と理性は別だと述べているにすぎません。

 

もしくは、それをしたいなら、周りの反対とか批判をおしきって、現在民主主義で決められているルールを変えるだけの力を自分が持つしかないが、それは当然「人間の自由を侵害することが許されてた時代」に逆戻りすることを意味するわけで。

 

再犯をどう防ぐか

被害者にとって本当に重要なのは、加害者への復讐なのか?否、加害者が立ち直って、社会に貢献することではないかと。それが償いだろうと、私は思う。

 

まあ例によって「自分の家族がやられても同じこと言えるのか!!」には答えられない。でも、遺族でない人がそれを言うなら、それこそ言論封じだと思う。

家族を殺されたことのある人しか、人を裁けないのか?意見を言えないのか?

違うだろう。

 

だからこそ、再犯をどう防ぐかが問題なんだな。「どうせあいつはまたやらかすに決まってるから、人権なんていらないさ」という考えじゃない。「あいつがやらかさないように済む方法を、みんなで考えよう」と。

みんなでその人の社会復帰をバックアップしていく姿勢。

 

その姿勢こそが、真に人権を理解しているということであり、「自分が過ちを犯す可能性を考慮に入れている」ということだ。人間は完璧じゃないんだから、結局はどこかで折り合いつけて、許し合うしかない。

 

 

まあ上のエントリ、id:butao_oさんは「みなさん投票よろしくね~」とおちゃらけた感じだったので、もしかしたら私がマジレスしてるだけかもしれない。お許しくださいな~

 

それでは、本日はこのへんで。

 

 

追記:

子をなくした父として」に、1994年のいじめ事件で息子を失った父親への、重松清さんのインタビューがあります。

 

重松:  もし万が一、自分の娘が、同級生のいじめに遭って、死を選んだとしたら―僕はこれ想像しかできないので、本当に申し訳ないんですけども―ずっと赦さない、と思うんです、相手を。で、一生憎み続けるだろうし、命日に手を合わせようが、何しようが、ほんとにまさに命を奪ってやりたいとさえ思うかも知れません。お父さんのお気持ちの中には、そういう「怒り・憎しみ・怨み」というものはほんとにないんですか?
 
大河内:  そういうのはないですね。ただ一つ言いたいのは、「清輝の代わりにしっかり生きてくれよ」という、そういう気持だけですね。ほんとに清輝は亡くなったんだけど、「清輝の分まで一生懸命やってよ。そうじゃないと赦さないぞ」という気持はありますね。「清輝の命の重さを自分のものとして、ほんとにどういう形かわからないんですが、しっかり生きていってくれないと、ほんとに清輝が浮かばれないな」という、いつもそういう気持ですね。

 

被害者の感情は、第三者が「憎しみ・怒り」で片付けられるほど単純でないこともご留意ください。結局我々はいつ自分が過ちを犯すかも、それを無事償えるかも、自分が他人を赦せるかどうかも、その時になってみないとわからんのです。