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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

インターネットにより忘れ去られる倫理たち?



あとで読む

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www.iitxs.com

読んですっごく腹が立ったので言及。あ、id:interactingさんに腹が立ったわけじゃなくて、この記事にある「友人」に腹が立ちました。

読まれていない方ぜひ読んでみてください。はらわたが煮えくり返ってヘソからマグマが噴火します。

 

今回も結構煽ったタイトルにしてみました。してみましたって何だよ。つけるのが下手なだけです。

ブロガーのみなさんはもちろん、ネットで何らかの情報をやり取りしているみなさんにも当てはまることだと思うので、耳の穴かっぽじって是非お聞きください!

 

 

 今回はズバリ、「ネットが人々の倫理観を駆逐してるんじゃないかなー?」という私の説についてです。駆逐とかいうと難しく聞こえるな、「破壊」とかに言い換えればいいのかな。

 

 

知の集合体インターネット

画面の向こうのあなたは当然のようにこの記事を読んでますが、それはいわば「ネット」正しく言えば「インターネット」に頼っているわけですね。はてなのサーバーからhttp://www.chishikiyoku.comというドメインにあるこのページの情報を引っ張ってきているわけです。現代のインターネットの基礎になった「ARPANET」が生まれて早四十数年、ネットの中の情報量はますます増え、インターネットはいわば「知の集合体」となりました。これを可能にしたのが情報に関する技術です。

Googleの例を考えてみるとよいでしょう。Googleなどの検索エンジンの会社は、いかに良いページを見てもらうか、ということに命をかけています。寝る間を惜しんで、検索者に役立つページを拾うためのアルゴリズムを作っています。

その結果、「北海道 料理」と調べれば北海道の有名な料理店の紹介サイトがずらっと並び、「自由とは」と調べれば難しい哲学チックなページがひっかかり、「虹 アメリカ人 何色」と調べれば、アメリカ人には虹が何色に見えているか答えているページが表示されます。天気予報だって目の前の小さくて硬くて四角い物体をいじれば出てきます。テレビを見る必要さえありません。

これは素晴らしいことです。

 

しかし、最新技術にばかり注目が集まるのは、あまり良いことではありません。いつだって技術はただの道具であり、それを使うのは人間でしかない。

ということは、本来は、その道具をどうやって使うか、という考え方のほうに注目が集まるはずなのです。それをここでは「倫理」と呼ぶことにします。 

技術と違い、倫理は人々の心の奥にあります。

 

それでは、情報産業が……インターネットが発達するにつれ、どういう弊害が出てきてしまったのか?というのを見ていくことにしましょう。

 

 

倫理とは?

その前に、倫理について説明していませんでした。

 

人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。(コトバンク)

 

難しいので言い換えてみましょうか。簡単に言えば

「みんなが『善い』『正しい』と思っているもの」です。

倫理がいかなる条件においても正しいことを証明することはできません。倫理のもとになる考え方は人種によって、国家によって、さらには個人レベルでさえ異なっています。

例えば、『道端で血だらけの知らない人が倒れていた』とします。あなたならどうしますか?だいたいは

 

助けを呼ぶ。

119番通報する。

解決できそうにないので無視する。

 

この3つに分かれると思います。では一番上と真ん中を選んだ方へお聞きしますが、

『どうしてそうしようと思ったのですか?』

そうすると、あなた方はきっとこう答えるでしょう。

「困っている人がいたら、手を差し伸べるのは当然のことだから

と。これが倫理です。人々が生きる上で正しいだとか善いと信じてやまないもの、そしてそこに合理的な説明をつけられないもの、これを倫理というのです。

 

無視すると答えた方。これも一つの手段です。一度救護し始めた人を放ってしまうと罪になるので、できないと思ったら無視するのも手ではあります。しかし、無視を決め込んだとしても、その後なんとなくモヤモヤした気持ちになると思いませんか?

それは、やはりさっきの倫理が心の奥にあるからです。他人をごまかせても自分をごまかすことはできない。ずっと引きずっていくわけですね。

 

ところで、

皆さんはこれが正しいことを証明できますか?自分の心の中にある行動原理のようなものの正しさを。

恐らくできないはずです。原理は原理であり、どうしてそうなのか、という説明を加えることができない。「それが正しいと感じるから」以外に説明のしようはありません。そういうつかみどころのない、でも、みんなが拠り所にしているのが倫理なのですね。

だから、これから話すことも、『無駄だ』と言われればそれまでなのですが。

 

 

ようやく前置き終了です。くぅー疲

 

見えない「画面の向こう」

はてな民の中には、たまに批判じゃない、非難としか思えないコメントをしていく人もいます。知能が高いはずなのに、残念です。

 

〇ねとか〇すとか直球じゃなくても、人の心を抉ることは簡単です。「くだらない。読む価値もない記事だった」とか「コイツの嫉妬だろ」みたいなマイナスの主観だけを述べたコメント。いかに周りの大多数がポジティブなコメントをしていても、そういうのが一つあるだけでかなり心に来ます。

身近な人のそういう態度は『あいつ最近何かあったのかな』と心配に転じますが、背景も人格もまるで知らない赤の他人からの呪詛の言葉は、かなり効きます。

そういう人のブクマ履歴を見てみると、だいたいおんなじようなことばかり書いています。よっぽどストレスがたまっているのでしょうか。

 

インターネットの最も大きな特徴は「匿名性」です。手垢がつくほど言い古されてきていますが、人々は匿名だと攻撃性が増します。自分の言動に責任を持たなくてよいから、ついつい大きなことを言ったり、嘘をついたりしてしまうのです。IDが一日で変わってしまうような某巨大掲示板ならなおさらです。一日たてば自分が発言したことはリセット。極端に言えば毎日死んでいるわけですね。

匿名なら仕返しを考えなくていい。捕まらない。殴られもしない。相手との関係を考えなくてもいい。

だから、面と向かっては絶対に言えないことを言えてしまう。

 

インターネットの発達はめざましく、現状、ネット上の誹謗中傷への対応へは、警察による対処と法整備が間に合ってません。どのへんあたりからを誹謗中傷というかも厳密には定まってません。

「人が傷つくことを安易に口にしないのは当然だ」という倫理が、ネットのもつ匿名性によってかき消されてしまう例です。友人の目の前で友人の傷つくことを言わないように、ネットにも本来そういう倫理が持ち込まれてもいいはず……なのですが、攻撃性が上回ってしまうのですね。

 

果たして、捕まらなければ、人はネットで何を言ってもいいのでしょうか?

 

 

駆逐された倫理その1:「人が傷つくことを安易に口にしないのは当然だ」

 

伝えていい情報?

そして、こうした過激な発言は、まとめサイトやNAVERまとめのようなサイトによって面白おかしく取り上げられます。全ては金のためです。煽りやマイナスの言葉のほうが、人を動かします。誰かはそれを見て傷つくでしょう。

そこには当然倫理がありません。「金を稼げれば別にいいや、誰が傷ついても構わないさ。どうせ言ったのは俺じゃないし」という自分本位な考えが、見知らぬ誰かを傷つけている……ということにさえ気づかず、ネットは今日も動いています。

特定の人間を傷つけてしまうような情報を流布してもよいものでしょうか?

 

例を挙げるなら、「Aくんがあなたのこと嫌いって言ってたよ」と、お節介以上の何物でもない余計な発言をかましてくれる女の子と同じなのですが。

こういう子って親切心じゃなくて、その人が傷つく顔を見たくて言ってますよね。本当に親切な子なら、そんなことをわざわざ伝えに来ないはずだから。

ちなみに、本当に親切心で言っているのならそれは結構危ういですよ。教育が……。

 

一部のサイトはこの女の子のようなことをやってお金を稼いでいます。サイトの例は出さないけどね。人種差別をすすめるような書き込みとか、レッテルを貼って対立をあおるような書き込みとか、そういうものを故意に抽出して、総意であるかのように言う。

(別にこの問題はネットだけではありませんが、匿名による攻撃性がますますこの風潮を強めていると感じたので取り上げました)

 

そうすればその問題でコメント欄は持ち切り。もはや肝心の「まとめ主」に対する文句は出てきません。まとめ方に悪意があるとか、故意に切り取ったとしか思えない部分があるとか。

 

金が稼げさえすれば、誰かが傷つく情報を広めてもいいのでしょうか?

 

倫理その2:「特定の誰かが傷つく情報を広めないのは当然だ」

 

 

※そういえば、傷つくの定義が曖昧でした。ここでは差別的な発言で傷つくことを指します。特定のカテゴリーに属する集団を貶める発言です。

『「ゲームを買った!」なんて言っても、ゲームを買えない子どもが傷つくだろ!』みたいなのはナシでお願いします。

「ゲームさえ買えない子ってどんな家庭環境よ!相当貧しいのね~」という発言ならこれにあたります。

 

安易に複製できる情報

活版印刷術が生まれてからというもの、近代文明は大きく発展しました。このことは後日ゆっくり話すとして。

今までは手書きでコピーするしかなかった書物が印刷できるようになったんですよ、これはすごいことです。海の向こうから情報(=書物)がわたってきて、向こうのことを知れたり、新聞で世の中の動きを知れたりできるんです。

『活版印刷術が発明された後の5年間で出版された書物の数は、発明以前の全ての書物の数より多い』なんて話もあるくらいですから、いかに影響がすごかったかわかりますね。まさに「情報革命」です!

 

しかし若者の活字離れが叫ばれて久しく、世の中は今「第二の情報革命」を迎えているといってよいでしょう。大事な書類は別として、日常生活で活字を目にしなくても生きてはいけます。実際そういう人もいるかもしれません。

 

電子上の情報は簡単に複製することができます。印刷よりも速いですよ。

コピー・アンド・ペーストによって、誰が言ったかわからない情報がネットを駆け巡ります。また聞きにまた聞きが重なり、ある地点で拡散し、収斂し、発信者にも戻ってくる。

我々が見る段階では元の情報はもはや影も形もないでしょう。

 

インターネットにある情報量はもはや、私たちが一生で消化できる量なんてはるかに超えていますから、情報は「伝搬」というよりむしろ「溶解」と言ったほうがただしい。おびただしい量の情報の中に、発信者不明の情報たちが溶け込んでいく。

クタクタにカレーを煮込むと、具材のカボチャが見えなくなるように。

 

もはや元の形を想像することはできません。

 

こうなると現れるのがパクリ問題です。元の形がわからないようにうまく書き換えてやればいい、と。もしくは、どうせ元の形なんてわからないんだから、ここからパクっちゃえ、と。

私が先ほど言及という形で紹介した記事ですが、これもやはり友人がブログの記事を丸ごとパクってきた、という内容のものです。

法律に抵触するとか、そういう問題の以前に、

「パクリをしないのは当然だ」という倫理

を、その友人は持っていなかったのでしょうか。違法じゃないからよいとか、違法だから駄目だとか、そういう話じゃなくて、

パクられたら嫌だからパクリをしない

という、小学生でも知っているような倫理を知らずに生きてきたのでしょうか。

 

ここにもやはり、稼げればよいという考えが見え隠れしている気がします。

「バレなければ別にいいや」「儲かれば何やってもいいさ」という考えが、人々をパクりに導いてしまう。バレても顔が見えないから、直接仕返しされない。

ある意味、Welqの問題にも共通しています。

 

倫理その3:「パクりをしないのは当然だ」

 

 

まとめ

と、このように、3つの隠された倫理が浮かび上がってきたわけですが、これ、

当然のことですよね?

「人が傷つくことは言わない」

「人が傷つくことは広めない」

「パクリをしない」

 

こういう人たちがいたらどうなります?

  • 「お前はハゲ」「お前はなんか臭い」「お前はつまらん」と、いろんな人たちに言って回る人。
  • 「〇〇さん、あんたのこと嫌ってたよ」「先生がね、君のことをアホだと言っていたよ」(貧しくてゲーム買えない人に対して)「友達がさ、『ゲームさえ買えない奴って心も貧しいんだろうな』って言ってたよ。そう思わない?」と、悪意の伝搬をして回る人。
  • 他人の言動をパクって、さも自分が言ったかのように振る舞う人

 

そりゃ、嫌われるじゃないですか、当然じゃないですか。

でも、金を稼ぐため~とか、正義のため~とかいう理由で、ネットでは正当化されちゃってるわけですよ。

 

 

当たり前のように思えますが、ネットに触れ続けているとすぐに鈍感になってしまいます。ついつい過激なことを言ったり、パクってみたり。

 

こういう倫理を意識してネットを使おう!というのもまあ、あるのですが。

私が最も伝えたかったのは「ネットという技術がどれほど強力か」ということ。それはちょうど強いLED懐中電灯のようなもので、夜道を照らすには便利ですが、自分や人の目に当てると危ないです。周りが見えなくなります。

現実では絶対に忘れないような倫理さえ、見えなくしてしまうのですから恐ろしい。まあ、たまーに現実でも忘れてる人、いるけど。

 

その恐ろしさを忘れたとき、人は終わると思います。

 

 

ブロガーのみなさんも、たくさんの情報に触れて生きているみなさんも、自分たちが今使っているものがどれだけ強いのか、どれだけ危ないのか。

それをよく確かめて、使っていきましょう!!