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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

価値観の違いが差別につながってしまうという現実



あとで読む

今日はちょっと過激な記事を書きます。過激ですがこれを見て皆さんが何を思うか何を書くかは当然自由です。ですが現実に起こっていることなので、目を背けることはしてほしくないですね。

 

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今日の話題は、一般的にいう

差別について。

というのも、こちらの記事を見てそう思ったのです。

comic-psychology.com

こちらの記事はズートピア(という名前のディズニー映画)からわかる確証バイアス……つまり人間が行いがちな安易な思い込みというのについて詳しく書かれてあり、すごく参考になります。私ズートピア大好きなんでもう20回以上は見てますよ。全部ストーリー覚えてますし画集も買いました。

 

価値観は差別であるか?

まずは価値観の違いが差別につながるのか、というところから見ていきます。

 

価値観とはものの見方のことであり、より具体的に言えば、当人が

どういうものに価値を置いているのか

と言い換えられますね。(価値/観……価値の観方 です)

価値観を持つときには、

他の存在と比較し、価値の大小をはかる

という行為が行われています。つまり絶対と相対ですよ。価値観というのは相対的なものであり、例えば「何を美しいと思うか」というのはまさしく価値観で相対的な質問だといえます。美しさに対する価値観として、

整形や化粧のない、その人そのままの顔

を頂点に置く人もいますし、

自分がただ美しいと思ったもの

を頂点に置く人もいます。

宝石をまき散らしたような星空

だと答える人もいますし、

真実

だと答える人もいます。

好きな食べ物という質問一つにしてみても価値観はもろにあらわれます。

こってりしたラーメンが好きな人、ドレッシングをかけないサラダが好きな人、カロリーメイトが好きな人、いろんな考え方があります。

そういう価値観の違いは差別に繋がるのでしょうか?私の答えは

繋がるべきではないが、繋がってしまう

です。

差別とは?

差別と区別を混同して使っている人も結構多いみたいなので、この記事では姿勢を明確にしておきます。ここでいう差別と区別の違いは

そこに侮蔑が含まれるか

です。狭義でいう差別の場合、歴史的には「ユダヤ人は差別された」という使い方が正しいでしょう。彼らを差別した人間たちというのは、(それが元々か洗脳による価値観かは知りませんが)彼らを侮蔑していました。しかし区別というのは違います。あくまで両者を比較し、どういう部分でどう違うのか考えて分けることを指します。侮蔑のような-な感情が含まれなければ区別ということにします。

 

こう決めたのには理由があります。

個人が(科学的手法などを使わず、)価値観の違いにより何かを分類するとき、そこには感情が含まれるのでしょうか。それとも事実だけなのでしょうか。

多くの場合、そこには感情が含まれます。

そして、差別という文脈ではほぼ「悪い感情」を含みます。これが理由です。区別の中にマイナスの感情を入れた時点で、言葉は区別から差別に変わってしまいます(どうして変わるのか、なんて聞かないでください。私がもつ言葉へのニュアンスの話であり、理性を以ってこれを証明なんてできません)

 

めんどくさい言い方しなくてもこう表せばよいのです。差別というのは、

アイツ〇〇だから(その人の特徴)嫌いだわ

と考えることだとね。

 

こういう経験が全く無かった人はいないでしょう。(いたら私に石を投げてどうぞ)

誰にだって嫌いな人間はいます。ですがその人をどうして嫌いなのかと聞かれれば、案外下らない理由だったりするのです。もちろん、「下らない」というのもまた私の価値観にすぎません。

こういう感情は当然価値観によって生まれています。

人間は価値観によっていろんなものを分類しながら生きています。価値観というのは先ほども述べたように相対的なものであり、一人一人違います。親子や双子だって互いにまったく違う価値観を持っています。

しかし、

価値観による分類から感情を排斥できないのが人間です。

これは考えてみればごくごく当たり前の話ですね。価値という概念自体が人間が作り出したふわふわしたものであり、そのため何に価値をおくかというのは個人に任せられています。科学的手法でさえも、「こういう面からみてみる」という一種の仕切りを設けたうえで分類しています。人間はあらゆるものをあらゆる角度から見て区別することはできませんから、当然何かの仕切りを設けますよね。一般的なもので例えれば、

「自分が楽しいとおもえるか」とか、

「他人が見てどう思うか」とか。

そしてまたそういう文脈で使う他人というのは「自分から見た他人」であり、感情を多いに含むのです。ぜーったいに感情を取り除くことはできないんです。

これが難しい問題。どう難しいかというと、

 

自分の価値観に照らし合わせたとき、下位のものを

劣っている/存在する意味がない

と考えてしまうから。

すなわち、侮蔑なんです。

 

ここまでまとめておきます。

  • 我々は価値観で両者を比較する
  • 価値観による分類から感情を排除することはできない
  • 差別とはマイナスの感情を以って他人を区別、分類することである

すなわち、我々は(感情が入り込んだ)価値観で両者を比較している

といえ、差別という区分はマイナスの感情によって行われている。

よって、価値観によって差別が起こりうる

という論理です。

いや、起こりうる じゃないな。

価値観によって差別が起こっている!!

だ。うん。

 

 次回、私がこう考える根拠を示し、どうすれば差別というものを少なくできるか考えていこうと思います。さすがに現実突きつけるだけじゃかっこ悪いですしね。