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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

批判したから思考力があるってのは違うよね



あとで読む

批判に必要な思考力とは?

差別うんぬんの記事の続きを書こうかなとも思ってたんですが、先にこっちから。全然関係ないですけど。

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昔、一日150~200PVくらいの結構まじめなブログを書いてたことがあります。こういう知識系雑記ブログじゃなかったんですが。

広告はつけようとも思わなかったし、自分の文章がただ誰かに読まれてるってのがうれしくてずっと続けてました。金は一銭も入ってきてません。あ、livedoorブログです。

励ましのコメントを下さる方もいれば、その逆のコメントもありました。こればっかりはブログやってく上で耐えるしかないもんなんですけどね。

でも、わざわざこんなところまでご苦労なことだなー……と、思ったのを覚えています。

それが一見筋道立っているようにみえて、中身はただの稚拙な人格攻撃だったりした場合、コメント返す気にもなれません。消そうかと思いました。てか、消しました。

 

批判に慣れてない日本人

日本って国では、自分の意見を言わないのがなにより尊いとされます。いわゆる

和を以て貴しとなす

というやつですね。これもハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」くらい誤解されてる言葉で、本当は「人と和やかに、でも納得がいくまで話すと、そうやって出た結論ってとっても道理に叶ってるよネ」って意味なんです。今では

角を立てないようにしよう!

って意味っぽく思われてますが。

そんな日本ではやっぱり、議論は行われてきませんでした。いやそれどころか

議論の方法というのを学校で習った覚えがない という人もいるはず!これが良いか悪いかというのはまず置いときましょう。置いとくとしてですよ。

議論の方法も教えずにグローバル化教育ウンタラ言ってんじゃねえ!

と思いますね。お偉方さんたちに言いたい。まあそれもおいとくとして。

なぜこんな風になっちゃったかというと、日本の授業がそもそもディスカッションに向いてないから、です。

以前外国(アメリカのカリフォルニア)に3年ほど住んでいた大学の友人がこう言っていました。

「日本人の前で発表しても、全然反応がないから怖い」

と。

そうですね、日本では基本的に、

1(先生)対大多数(生徒)というスタイルで授業が行われています。生徒が黙って先生の話を聞くことが何より生徒に求められることなわけです。反応?それをするなんてとんでもない!!

いえ確かに、海外だろうが日本だろうが、前で人がしゃべってるのにそれを邪魔するのは当然失礼です。それはわかってるんですが、

1対大多数というスタイルに慣れすぎてないか?

と。……いや、逆か。

議論に慣れてなさすぎじゃないか?

みんな反応がなさすぎないか?

と思ったのです。

こういう議論への不慣れというのはしばしば会社でも問題になるようで、

Googleで試しに

「会議 」と打ってみると、

「会議 意味」

「会議 無駄」

のようなマイナスなキーワードが予測に上がります。うーん、大丈夫かな。

で、さっき登場した彼ですが、のちにこんなことも言ってました。

「発表が怖い。質問が来ないから」

と。

外国では質問こそが「その人の話を聞いていたよ!ちゃんと伝わってるよ!」というサインのよう。しかし、1対大多数に慣れ切った日本においては、ただ目の前の人の話を疑問を持たずに聞くことが美徳……みたいになってるから、質問なんて出るはずがない。みんな黙ってノートとってますよね。

ということはやはり、議論のような「他人の言っていることを自分の中に取り込み、どちらの意見が正しいのか(or どうしたら最善の方法で解決できるか)」考えることが求められるイベントは日本人は苦手なほうなのかもしれません。

先生が話すことが唯一の解であり、それさえ覚えておけば受験には勝てる。そう考える人が多いために、授業中に疑問を持たなくなってしまうようです。

私は授業中に手を挙げて質問しろと言っているわけではありません。ただ、質問のような「考える」ことを必要とする行為が日本では求められていないために、考える力自体が失われている、と述べているのです。まあ、そういう考える力というのは掴みどころがなくて、テストにはあまり表れにくいです。

だって、質問力なんてテストじゃ問えないから。テストは逆(問われた問題にいかに速く正確に答えるか)だから。

 

これは案外根が深く、数年でどうにかできる問題ではないです。残念ながら。

議論に慣れてないので当然議論の方法がわからない。そのせいで、

「人格攻撃まがいの言論」が正当な批判とみなされたり、「ただのレッテル貼り」が立派な正論みたいになってしまってます。

少なくとも日本では批判と聞くとマイナスなイメージがありますが、だいたいこれのせいによるものでしょう。

これは某匿名型巨大掲示板では当然として、ちょっとした有名人さえも残念な批判を行っていることがあり、見るたびにうーんなんだかなぁという気持ちになります。

批判と非難は違うよ

批判がそういう風に嫌われがちな理由っていうのは、批判が非難になってしまっているからではないでしょうか?つまり、相手の欠点だとか言論のささいなミスだとかを、まるで鬼の首をとったとでも言わんばかりにあげつらい、徹底的に貶める。これはもはや批判ではなく非難です。ですが匿名でブログに寄せるコメントにはこういうものが多数見られます。(昔の私のブログにあるコメントから例を挙げたいくらいなのですが、挙げた瞬間このブログも徹底的に貶められそうなのでやめときます)

批判というのは、「何が誤っているのか」という箇所を客観的に示し、改善につなげさせることを言います。そのため意見を言うことよりも批判のほうが難しく感じられます。

必要なものがたくさんあるからです。

  • 関連する分野への造詣の深さ
  • 客観的・多面的なものの見方
  • 攻撃されても揺るがない理性
  • 相手への尊敬の気持ち
  • 論理的な思考
  • 考えを裏付けるデータ

考えつくだけでもこれだけの事柄があります。

また、自説をまとめ、相手の論理のどの部分の隙にきくのか、ということまで考えるため、批判には当然時間がかかるはずです。

 

批判のためにはまず思い込みをできる限り廃止することが大切。

なぜか?それは、

お互いの認識の違いが言い合いにつながるから

です。某nちゃんねるで見ますね。言葉の違いが不毛な言い合いになり、収拾がつかなくなる状況。「最初に定義を明確にしろ」といわれるのはそれを防ぐためだったのです。あ、健全なはてな民の方々は見ないほうが……よろしいかと。

ですが、議論というか批判をしたいだけの人たちはそこさえ明確にはしません。

批判というのはそもそも「改善を求める」ためにあるものです。しかし彼らはそこが目的ではなく、「批判をすること」が目的になってしまっている。

つまり、結論ありきなのです。自分の主張は絶対に曲げない。論破されかかっても感情論で逃げ相手を罵倒し噛みつく。だから自分の言葉の定義なんて明かしません。相手はただの木偶の坊である必要があります。

まぁ、ボロクソ言うだけ言って立ち去る無礼な輩もいっぱいますが……。

言うだけ言えば、後は筆者が何を思おうが何をしようが別にいいんでしょうね。

自分が満足すれば勝ちだから。

 

自分が間違ってる!といえばそれは間違ってる!のです。

「相手が何も言えなくなる」批判というのは楽しいです。少し議論に慣れてくると、自分の論だけでなく周りを見る余裕ができ、相手より上に立ちたい/立っていることをアピールしたいがために、意味のない批判をするようになります。こうして脳内麻薬を分泌させています。

しかし、批判に必要なものも注意すべき事柄も知らないので、それは批判の体をなさず、意味のないレッテル貼りと罵詈雑言になりがち。

というか。

相手は論破されて何も言えなくなったのではなく、呆れて何も言えなくなったんでしょう。罵詈雑言やレッテル貼りに付き合う暇なんてないですから。

もっと残念なのは、彼らがそのことを意識していないという点。おそらく自分では

「俺は間違ったことを正してやってるんだ、俺は議論のできるすごい人間なんだ。俺は議論に勝ったんだ」と考えているのでしょう。悪意のない分よけい厄介ですね。

 

念を押しておきますよ。私は

思考力のなさから(メッセージの受け取り手や第三者が)中身のない罵倒・中傷行為をも批判とみなちゃう不健全的精神について批判しているのであって、「ちちんぷいぷい批判よなくなれ~!」なんて思ってはいません。

批判がないとかちょっと怖すぎますよ。どこぞの北の国かと。

この記事についての批判も理性的・論理的であれば全然かまいません。ありがたいです。

 

批判と非難の違い・具体例

例えばとある文章があるとしましょう。これに関する批判と非難の違いを、具体例で示しておきます。

批判:筆者は文中で「A」と書いていた。しかし、Aという説を否定するデータがある。世界B機関が出したデータによれば、Cの数は世界的に見て変わっておらず、Aが正しいいとは言えないのが現状であろう。実際はこのデータからCだということがわかる。

批判2:Bが出したデータから判断したのだが、DによりEが引き起こされているという現状を鑑みるに、Dが直接Fだけにつながるという筆者の言論はまだ考察の余地がある。もしDがFだけにつながるのであれば、GもIに繋がらなければならないはずだが、実際にはそうなっていない。だから実際はDはJに繋がるといったほうが正しいだろう。

非難:あなたはどうやらA主義者のようですね。ですがA主義者の言っていることはいつも間違っている。友人にA主義者がいますが、彼は人格面でも大いに問題があり、A主義者の言うことは間違っていると言わざるを得ない。

非難2:なんやコイツ。コイツが書いた記事なんて評価に値しないし、見たくもない。どうせ炎上狙って書いてんだろ。そもそもコイツがAでBって時点で俺は気に入らない。だからコイツの書いた記事も間違っている。

 

両者とも結構多いですよね。批判はデータや誰かの本を引用したりして、筆者の説の間違いを客観的に・論理的に修正しようとしています。筆者はそれを受け、

「あーなるほど、俺の私の説は間違ってたんだな」

「うーん、確かにこう考えると、論理に穴があるぞ。補強しなきゃ」

とわかります。

 

非難は感情論、決めつけ、レッテル貼りのなんでもあり。筆者は受け取ってから、

「ぐすん……批判されちゃった……」

か、

「うわー、なんかめんどいの来た」

と思うでしょう。

 

こうした違いというのは

文章によってごまかすことはできません。

いくら文章力が優れていても、客観的でなければ批判にはなりえないんです。たとえ難しい言葉が使われていても、中身がレッテル貼りならそれは非難になります。

例えばね、「あなたは文中で〇〇と言った。これはネトウヨの口癖であり……

以上のことから、あなたがネトウヨであることは否定できない。よってあなたの言うことは間違っている」とか。

論理的思考ができる人ならその違いはすぐに見分けることができます。

 

思考力のある人間は確かに批判を上手にすることができます。しかし、

批判(もどき)をする人間を思考力があるとみなす

のは間違っている、と考えるべきでしょう。ここの見極めが本当に難しいところであり、私も陥っていないか心配なのですけどね……。特に、自分の説に寄せられた批判は、「自分の説は自分自身だ」といってもよいくらい愛着がありますから、適切な批判だったとしても「非難だ!攻撃されている!パニック!ワニワニパニック!」

になりかねないので。

では、私たちのような素人は、どうやったら上手に批判できるのか、また、どうやったら批判を上手に受け止められるかというのをいずれご説明いたしましょう。これを身につけるだけでずいぶん楽に生きられますよ。

批判が必要な場面なんて、実社会でいくらでもありますから。