ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

【微エロ】男の浪漫、チラリズムについて語ろう【第一回】



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世の男性諸君、こんな経験はないだろうか。

スカートをはいた女の子が階段を登っていく。好きというほどではないが、気にはしている子だ。

少し胸を高鳴らせながら見ていると、ついに角度がアレになって、スカートの中のアレがアレしそうになる。あぁ……良きかな、と思いながら前かがみ気味に自分も階段を登っていった。

 

今日は私がアッチ系で心から尊敬を抱く某id:butao_oさんや某id:gundamoonさんのようにはいかないが、変態らしい記事を書いてみようと思う。

予め断っておくが、これは低俗な記事だ。ブクマやコメント欄にて『低俗だ!』とか『つまらない!』『ぜーた氏ね』とか言われても、私は対応ができない。

こうやって予防線を張っているのだから、閲覧は自己責任制だろう……!

と、勝手に決めつけさせてもらう。

 

 

18禁になるほど過激な内容は書かない。はてなブログは一応青少年も見れるブログの運営を心がけるよう、我々に言っている。ただid:butao_oさんの記事は、過去の私のような純粋な中学生(大嘘)が読んだら卒倒してしまいそうだから、義務というわけでもないのだろうか……。

というか、健全な青少年ならば、このような考えを持ったことは一度ぐらいあるだろう?という内容を扱うのだ。お許しください!!

 

リアルでは絶対に言えないことだ。ここは私のブログなのだから、ストレス発散の場所として書きたいことを書かせてもらうことにする。

今日のテーマは『チラリズム』についてだ。

 

チラリズムとは?

人は感性のことになると、とたんに言葉を発することができなくなる。エロはその頂点だと言ってもいい。平たく言えば「自分がなぜ興奮するか」ということについて、うまく言葉で表すことができないのである。

それはエロが持つ宿命の一つである。ある意味笑いとも似ている。

エロを分析しようとすればするほど、その姿形はよくつかめなくなってしまう。かといって愛そうとしても、正体はますます見えなくなる。

まさにCHAGE&ASKA"太陽と埃の中で"の一節だ。

 

追いかけて 追いかけても 掴めないものばかりさ

愛して 愛しても 近づくほど見えない

 

 

しかし、もしエロのもつ「言語化不能な領域」が完全に分析されてしまったとしたら、とうとうエロというものは世界から消え去り、人類は頽廃してしまうに違いない。

 

逆説的ながら私は、エロの持つ神秘性こそがエロを際立たせているのであり、これがエロのもつ最大の美点そして弱点だ、という仮説を支持することにする。

この根拠はまた後日。

 

ということは百も承知の上で、私の中に芽生えた好奇心が、この謎の現象の仕組みを言語化し、解明しようとしていることもまた確かである。好奇心は理性では説明がつかず、今私の心の中では、完全に理性と感情が逆転してしまっている。

「エロを分析しても何の得にもならない!」という理性の声。

「分析しちまえよ、楽になるよ」という感情の声。

 

どうすればよいのだろう。

 

さて、長い前置きは後にし、そろそろ本題に入らんとする。

 

チラリズムとは1950年代に作られた言葉であり、どうやら

チラリと見えるエロティシズム

の略語らしい。エロティシズムとはeroticに〇〇主義という意味を付加する-ismがくっついたものであり、無理に日本語に訳すなら「好色性」とでもできよう。まあ何のことはない、「性欲」と同義であるよ。

だから、チラリズムというのはいわば「何かがチラリと見えたときに芽生える性欲」のことである。何が見えたのか?ここでは対象を限る。

それは木綿だったり、あるいはポリエステルであったりナイロンであったりする。私は木綿を推す。

 

遠き日のおもひで

小学4年か、いや3年の頃だったか。

女の子の家にお呼ばれした。好きというほどではないが、気になっていた子だった。

背が低くて、きれいな黒い髪をしていた。

純日本人とは思えないほど端正な顔つきだ。

宝石のようなまん丸な眼、ちょこんと添えられたような小さな鼻と口。

 

だが、そんな可愛い子ちゃんと私はいつしか仲良くなっていたのだろう。子ども特有の大胆さ……無手法とも言う……によって、なぜか彼女の家に呼ばれるくらいの仲にはなっているのだった。うらやましい限りである。

 

その日は確か、外で何かしていた。何だったかは覚えてないが。

彼女はデニム地のスカートをはいている。膝の上まで隠れるぐらいで、そんなに長くはなかった。

その濃紺のヴェールが神秘なるアレを隠していたのだった。

 

涼しさを超えて少し肌寒さをも孕む11月の秋風、透き通るような空の下。

私は純粋だったので(誤用)、桶屋が儲かるほどの突風が吹いて、そのヴェールが早く剥がれないかななんて思っていたものだ。訂正、願っていた。

 

「寒いねー今日」

そう言いながら彼女はアパートの階段を登っていく。思い出した、あの日は近所の駄菓子屋に行く予定だったのだ。

階段は

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こんな風に、下から見ようと思えば全然見られるつくりだったから、運さえ良ければ、だったのだ。運さえ。

 

だがとうとう、エロス(ギリシャ神話の愛の神)は私に微笑んでくれはしなかった。あまりに不純なる感情を私の視線の中に見出したのだろう。

彼女が階段を登っていく。スカートの中への目線と、彼女の身体の真下に引いた地面への垂線がなす角度がだんだん小さくなり、ついに臨界角に達したその瞬間。

彼女は階段を登り終わった。

すなわち、見えなくなったのである。

 

はい、伏線回収(錯乱)

 

意図的でないにしろ、後日スカートの中を見てしまったのだが、この時ほどの興奮はない。それどころか萎えてしまったのである。(気持ちとか)

私はここにチラリズムという概念を見出した。

即ち、見えそうで見えないことが真に男をそそるのであって、決して見えてしまってはならない

という事実に気が付いたのだ。小学4年で。

 

これを無理やり言語化すると長くなるので、数式を用いてみる。 

関数化してみた

まず、時間(t)を横軸に、興奮の度合いを縦軸に、性的興奮度(S)を関数にしてみよう。

好きな子の姿を捉えたときの時刻をt=0、そこから見えてしまうまでの時間をt=kとする。このときの座標(k,Smax)を臨界点と呼ぶ。

なお簡単のため、今回はSmax=1とし、臨界点における興奮度を1とした比として考える。

男性諸氏の心の中はこうなることが予想される。

 

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え、わかんない?しょうがないなぁ。

k=5(s)とすると、

 

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我ながらこのグラフは非常によくできていると思う。

見える、見えるゾオオオの心臓の高まり方、これがt=5に向かって急上昇し、その後

「あー……見えた、見えちゃったよ……」とちょっと萎えつつ、さっきの余韻に浸りながら、ゆるやかに興奮度が下がっていく。だけど30秒もたてば余韻も完全に冷め、マックスの20分の1ぐらいしかなくなってしまう。

 

 

なぜこのような現象が起こってしまうのだろう。

私はここに一つの答えを見つけた。

 

順を追って説明しよう。

隠蔽へのエロティシズム

まず、エロの本質は「隠蔽」であると考えられる。日常で覆い隠されてしまっているものがそのヴェールを脱ぐことで、我々の日常は途端に非日常へと転化する。何故かというと、性欲を日常で展開することが、常識的には認められていないからである。

 

性欲は人間の三大欲求にもカウントされるほど重要なものでありながら、どうして日常でさらけ出すことが拒否されるのか。それは、性欲が本能にカウントされるのに対し、社会は理性によって成り立つからである。

道端であんなこと、こんなことを(やりたくても)やらないのは、理性が本能を抑え込んでいるからだ。フロイトの精神分析学的に言えば、エスを自我が抑え込んでいる状態だと言えるだろう。そして、そのしがらみを一時的にでも超えてしまったものが、捕まったり変態と呼ばれたりしている。

では、他の三大欲求である食欲や睡眠欲と違い性欲だけが現代で認められていないのはなぜか。どうして人前で食べたり寝たりしていいのに、性欲を発散するのは許されないのか。

 

まず歴史的な話で言えば、西洋文明が入ってきたときに「性欲=汚い」というイメージを植え付けられたから、と言うことができる。言うことができるだけで専門家から見て正しいかどうかはわからないからあまり信用しないように。というか、ここの部分の仮説、専門家から見てどうなのか助言いただけると非常にありがたいです。

 

もともと仏教の五戒では、性欲を持つこと自体を否定していたわけではない。仏教徒が守るべき五つの戒として、

殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒がある。邪淫というのは「淫らな関係を結ぶこと」であり、不倫が該当する。(出家した仏教徒は性欲も禁止だが)つまり不倫じたいは禁止だが、性欲についての規定はないのだ。

民族に深く根付いていた仏教を見る限り、日本はそれほど性について厳しかったわけではないことがわかる。

 

ところがキリスト教についてみてみると、モーセの十戒に「汝姦淫するなかれ」(Thou shalt not commit adultery)とあり、マタイによる福音書では、情欲を抱いて女を見ることが既に姦淫に含まれるとされる。また、カトリックではG行為も罪とされる(カトリック教徒だった国語の先生がおっしゃっていた記憶がある)。

福音書や思想にもよるが、性に関し、日本より厳しかったのがわかる。

 

日本が性について厳しくなったことがあるとすれば(すればの話)、その転換期は何より文明開化だろう。西洋の考えを取り入れる過程で「性欲は厳しく戒められなければならない」という考えを人々が抱いてもおかしくはない。何しろ「日本は未開だった!西洋に追いつかなくては!」と、当時の人々は必死だったのだから。

その結果、人前で性について語ることさえタブーとなった、と。

 

これを示すためには、明治時代以前以降の性にまつわる本を読み、その解釈の差を明確にする必要があるが、結構壮大そうなのでやる時間がない。

やってる人いるのかなぁ。

 

じゃあこの仮説が正しかったとしてだよ。して、結局どうして性欲がキリスト教で否定されていたのか、なぜという部分を説明したことにはやはりならない。

が、文字数の都合でそれは次回に回したい。お楽しみに(してる人はいないだろうけど)。