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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

貼りついた笑顔の仮面が取れなくなった

「笑」のイラスト文字

どうも、最近テスト勉強のせいでブログ書く時間がないぜーたです。

 

現実生活の私をご存じの方でブログを読んでおられる方はきっと知ってることなんだろうけど(ほとんどいないか)、私はだいたいいつも笑顔を絶やさない。

というのは当然、授業中でもお風呂でも常にニヤニヤニコニコしているという意味ではない。

人と話すときに笑顔が絶えない……という意味だ。深刻そうな話のときにはさすがに打ち切るけど。

 

でも、この性格がもともとそうだったわけではなく、本来は自分の真意を悟られないようにするための防衛術だった。

まあー、あれだ。闇の魔術に対する防衛術、的な。

 

前に書いた気もするが、私の小学校中学校はけっこう壮絶だったので、嫌がってるとか悟られたら終わりなのだ。

そういうわけで、何を言われてもだいたい冗談で済ますし、済ませるぐらいの強い心臓は手に出来たが、今度はいつの間にかその笑顔が貼りついて取れなくなった。

 

作り笑いをしすぎるせいで、逆に「心から笑った」という経験を最近いつしただろうか……と、ふと悲しくなってしまう。

 

 

 

笑顔の9割は嘘、1割は本当

というのは、少しシニカルな私の友人が言っていた世迷い事だ。

実際そうなのかもしれない。

 

以前、「子どもは1日に400回笑うけど、大人は1日15回だけ」みたいなCMが流れていた。

www.youtube.com

 

たぶんあながち間違ってないし、人前で見せるその15回のうち1回でも本当の笑いはあるだろうか。

 

ないんじゃないかな、と最近は思っている。

 

なぜなら顔に笑顔が仮面みたいに貼りついてしまったせいで、本当の笑いを忘れてしまったからだ。

こんなことリアルじゃ臭すぎて言えないけど、子供の頃の「無邪気な笑い」なるものを一種の理想状態、撞着してすぐさま滑り込んでくるノスタルジイとして想定してみると、自分の1日15回にも届かない笑いはそれには程遠い。

 

強いて言えばナイトビジョンのように、心の隙間に入り込んできた感情のわずかな高ぶりを無理やり増幅して、顔という投影装置に映し込んでいるだけだ。

だから、本気で涙を流して笑ったことなんてのはもってのほかだし、その他の笑いというものも大概は作り笑い、だと思う。もうわからない。

 

 

作り笑いでも相手が幸せになるなら

それでも、私はいいんじゃないかな、と開き直りつつある。

 

「お前は本当によく笑うな」とはきっと100回ぐらい言われてきた。まじめに。

作り笑いか本当の笑いか自分でもわからないのだから、他人が見てそれが本当かどうかなんて見破れるはずがない。

演技をし続けた結果、自分の人格がどっちだったのかわからなくなる、おマヌケな役者に似ている。そういう話もあったような、なかったような。

 

でも、一緒にいてムスッとしている人と、いつも笑っている人とでは、きっと後者とみんな付き合うだろう。少なくとも。なら、それでいいんじゃないか。

闇の魔術に対する防衛術は意外にもこういうところで花を咲かせていた。

 

これで本当に良いのだろうか

がしかし、これで本当に良いのかという気持ちも半分、いや5分の1ぐらいはある。

打ち解けた友人との会話でさえこうなのだから、上司の下らない自慢話や夢の話では、きっともっとひどいのではないか。

増幅させるための感情さえないから、表情筋を無理やり可動域限界まで伸ばして、ザ・笑顔 みたいな表情を作るのだろう、たぶん。

 

まだそういう話をされたことがない私にとっては、これ以上突き詰めると本当に笑いという感情を忘れてしまう気がして怖いのだ。

まあ後述する理由で忘れることはない、と思うんだけど。

 

一人の時に笑えばそれでいい……?

今まで話してきたのは全部「人前で」の話だ。

友達や先輩に対して笑いを作っているから、面白いって感情もなくなるんじゃないかなってのがまとめ。

でもこれは人前でのものに過ぎない。私はこういうイタいことを書いてるけど別に中二病ではないし、実際にはちゃんと心の底から笑っている。(と思っている)面白いって感情じたいは失っていない。

 

それはいつかというと、一人のときだ。

(逆に一人のときでさえ笑顔が全くなければ、たぶん相当ヤバいのだろう)

 

 

某東北出身の「ちょっと何言ってるかわからない」の人達のコントを見たり、twitterの面白い動画を見たり、皆さんのブログとかブクマを読んだりしている時だけは、日常の人間関係の些事から解放された気分になる。

汗で張り付いたシャツを脱いだときのような気持ちだ。

 

 

最近はid:dogear1988さんのブログを訪問することが多い。

dogear.hatenablog.com

読者が400人越えなのでまあまあ有名だとは思うが、勝手に紹介させてください。

気に障ったようなら消しますが。

 

彼のブログははてな界隈でもたぶんかなり特殊で、自分の食事とか花を撮影して毎日アップしておられる。

食事はまあ……ご覧になればわかるが、スタバだったり野菜だったりドーナツだったり弁当だったりだし、花も、詳しくない私にとっては「花だな」で終わるものだ。

 

それでも、dogear1988さんという人間が健康に一日を過ごし、花を愛でながら生活しておられるのだな……という事実を実感し、まことに身勝手ながら安心することが多い。顔が見えない分こういうことに弱いのだ、私は。

 

だからこれからも更新お願いしますね。

 

これはどっちかというと「安堵の笑顔」か。面白くて出る笑いというより。

 

面白いほうの笑いで言うならば……誰だろう、本気で笑って涙が出たのは某下ネタブロガーさんの記事だったけど、もうおやめになったしなあ。王道中の王道だけどもid:Arufaさんのは毎回毎回笑いが止まらなくなる。授業中も発作が起こったりする。

たいてい読むのが23時とかだからきっと近所迷惑だろうな。ご近所さんにはすみません。

 

この前めちゃくちゃ笑ったのは、とある大先生がいつもおっしゃる「睡眠・運動・瞑想・野菜350g」を略した便利な四字熟語が生まれたときだったか。

彼自身の機関銃のような罵倒もまた見ていて気持ちが良いので笑ってしまう。

 

 

そのゴロの良さに笑ってしまった。今では辞書登録して使ってます。

NHKスペシャルで話題の“マインドフルネス瞑想” 「安易な瞑想は危険」との指摘も (デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

睡運瞑菜の中でも瞑想の難易度は高め。身体感覚や身体症状を気にしがちな人が瞑想時に身体感覚に注意を向けてしまい症状悪化しちゃうパターンにも注意が必要

2016/11/25 17:59

b.hatena.ne.jp

 

睡運瞑菜! 

 

 

例外・子どもたちと接するとき

ただもう一つ例外があって、それは「塾で子どもたちと接するとき」だ。全くすれたところがない彼らと接しているときだけは、人前だけども笑うことができる。

これはきっと、向こうが「作り笑い」という概念を知らないがゆえの自然な笑いなのだろう。互いに気を遣って笑いを作るのが社会人だとすれば、小学生って自分が面白くないとあまり笑おうとはしないから、こっちもそのスタンスで臨むことができるのだ。

 

この前涙が出るほど笑ったのは、宿題をやってきていないH君のことで。

小学4年生。

彼に「どうして宿題をやってきてないの?」と尋ねたところ、

「現代はストレスが多いですから……」

って悟ったように言うからおかしくておかしくて、授業中なのに笑いが止まらなくなった。向こうはどうして笑ってるのかわからなかったみたいだけど。

 

あとは、運動会で応援団長をしているらしいK君。彼は小学6年生。

「ダンスを小学5年生に教えているけど、全然覚えてくれない。

もう練習の見通しが立たない

「計画がぐちゃぐちゃだ」とかならまだわかるけど、「見通しが立たない」って政治家みたいなことば使うかなぁ。面白くてこっちも笑ってしまった。

 

あーあ、社会に出たくねえな。いっそのこと、ライ麦畑から落ちそうな子どもたちを助ける仕事にでも就きたいな。赤いキャップ帽かぶってさ。お気に入りのレコード持ってさ。

 

そういうわけで、ネット世界と子ども世界の中では、私は本当の笑顔を取り戻すことができる。まだ救いの手はあるかもしれない。……というだけの話。

これが社会に出たらきっと話は別なんだろうな。はたして1日1回も笑うだろうか。

 

あなたはどうですか。ちゃんと、笑えてますか。

 

社会人の皆さんからのお話を伺いたいので、コメ欄やブクマにどしどしどうぞ。

要望があれば、小学生の言動でおかしかったものも別記事にしてまとめますよ。

笑いを少しでも提供できれば幸せです。

【いじめ?】サッカー部とか野球部って人を殴らないんだ!

今回もどうでもいい自分語り。ブログの題名にも関係がない。

どうでもいいけど自分の人生に結構影響を与えてるからお話ししよう。

 

実は(?)私小学・中学のときにサッカー部とか野球部とかに殴られてました。

たまに蹴られたり叩かれたり押し倒されたり。

 

でも私はまだマシな方で、他にやられてた人の中には弁当をひっくり返されたり嫌われてる女子に告白させられたりひたすら殴られ続けたり体育館の裏に呼び出されていやこれ以上はもういいか。

 

 

というわけで、つらつらとその当時の思い出を語っていく。

語らずとも、たまに夢に出るが。

 

憂鬱な体育の時間

まず小学生の頃の話。横暴なグループがいた。そのリーダー格を仮にF君としておく。彼はサッカー部に入っていて、取り巻きはみんなサッカー部と野球部。

みんなオラついていた。髪を染めてたのもいたけど、あれ先生は何も言わなかったのかな。

 

私はいちおう水泳をやっていたけど、走ることとか球技とかはからっきしだったので、体育の時間はいつも憂鬱だった。私だけじゃない、「体育がそんなに得意じゃない」という生徒もだ。

なぜかというと、球技で失敗すると、彼らに一時間ぐらい無視されたり仲間外れにされたりスネを蹴られたりするからだ。それが小学4年の頃。

早ければ自我なんてものが芽生え始めてる時期にこれはきつい。運動神経=カーストみたいなところがある小学校で、「運動のできないお前は駄目な奴だ」というレッテルを貼られ理不尽に差別されることを私たちは学んだ。

 

でも私は夏の期間、水泳があるときだけヒーローになれた。

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チーム対抗の25mリレーで、不利な形勢だったのを私がアンカーで追い抜いて逆転したときのことは忘れない。

まだ私はマシだった。

逆転された人は後から呼び出されて蹴られていた。

泣いていたけど、私はただ黙って横を通り過ぎた。

 

閉鎖的な地域だったから、ヒーロー転校生が入ってきて一気に陰鬱な雰囲気が解消~!

なんてこともない。

 

一度、肩に出来たアザを親に見つかり、「そのアザはどうしたの」と聞かれたことがあったが、親に心配をかけたくなくて「掃除中に机で打った」と答えた。どうやって肩を打つのか。

きっとこういう人が何人もいたことだろう。

 

中学校でも

中学校に入って、私たちの小学校と隣の地区の小学校(それぞれ同じぐらいの人数)とが合体した。

私たちはこれによって殴られなくなる……ことを期待していたが、事態はより深刻になった。

 

というのも、サッカー部や野球部は地区が近く、しばしば一緒に練習していたようで、「うちの小学校の横暴な奴ら」と「隣の小学校の横暴な奴ら」とが合体して、連合を組成してしまったのだ!

こうすることで彼らはますますつけあがる。

ちなみに隣の小学校でもその小学校の横暴グループが幅を利かせていたらしい。

さらに、その繋がりは横に留まらない。本来なら後輩を戒めるべき先輩たちも彼らとズブズブの関係だったようで、先輩の目の前で他の奴らを殴っていても、ニヤニヤ笑って見ているだけだった。腐っているとしか考えられない。

そのせいかわからないが、サッカー部や野球部はいつも初戦敗退とかだった。

 

ところでこれはいじめなのだろうか……?

 

いじめってのはたぶん特定の誰かに精神的身体的苦痛を与えることだけど、私たちはサッカー部野球部2中学校連合グループ以外の男子ならば、みんな暴力行為に怯えていた。(なぜか女子は殴られていなかった)

だから本来はいじめとかじゃなくて、「多くの人が、お山の大将を拗らせたグループに暴力を振るわれる」と言った方が正しいのかもしれない。

 

まあ何にせよ、私たちがいろいろされていたのは事実だ。

 

事例

  • カツアゲ。「1000円持ってこないと殺す」等の暴言により金を持ってこさせる。私は食らったことはなかったが、陸上部のある男の子はやられていた。持ってきてたみたい。通報はできなかった。
  • 水筒の茶を勝手に飲まれる。飲まれたことを指摘すると殴られたり蹴られたりするので誰も何も言えない。時期は体育祭真っ只中で、茶がないことは死を意味する。防衛策は一つ。「リュックの中に入れ、リュックごとずっと持っておく」。
  • 特定の一人への暴力行為の強制。A君は特別嫌われていたが、横暴グループは私たちにA君を殴るよう求めた。私はA君と友人だったので殴りたくなかったが、やらないと殺されるのでやった。心が痛かったし、今でも思い出して痛む。
  • 暴力行為告発女子への執拗な嫌がらせ。勇気を出して先生に告発するも、なぜかばれて男子の間で無視などされる。この件以来暴力行為を告発しようとする人はなくなったため、暴力は暗黙に。
  • 万引き強要(噂だけど、たぶん間違ってないと思う)。
  • サッカーでシュートを外すと体育の後に呼び出されて集団で殴られる。私も確か食らったはず(いろんなことでやられてきたので覚えてないが)。スネ蹴られたのが一番痛かった。
  • 機嫌が悪いとサンドバッグにされる。
  • 彼らが言った冗談で笑わないとサンドバッグにされる。
  • 口答えするとサンドバッグにされる。
  • 「土下座」ということばを使うとサンドバッグにされる。
  • 体育教師も暴力行為を黙認。というかたぶん手が付けられなかった。
  • タバコは当然として、シンナー遊びが見つかる。

 

 

とまあこんな感じ。正直言ってかなり荒れてたと思う。リアルの友人に話すと結構顔が引きつるので、みんな経験してなかったのかもしれない。

 

当時は全然気が付かなかったけど、私たちの学校が異常だったのだろう。

 

 

カースト制度による暴力行為

しかし実は、暴力行為は中学1年の終わりからなくなっていた。

なくなっていた、というのは私の主観で、どういうことかというと、「私自身は殴られなくなった」ということだ。

なぜなら、私自身が生徒会に入部したおかげで、カーストが上がったからだ。

 

……ってカーストって何のこっちゃと思われるかもしれない。

そういうわけで、まず中学校内部でのカースト制度についてお話ししておこうと思う。

 

 

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ご存じの通りカースト制度とは、インド・ヒンドゥー教にてずーっと昔から慣習になっていた身分差別制度のことである。図でいうと一番上が特権階級。一番偉い。下にいくにつれ階級が下がっていき、不可触民ともなると人権なんて概念が通用しなくなる。

インドの憲法では現在カーストによる身分差別を禁止しているが、その実態といえばまだまだ解決には程遠いらしい。

カースト制度の話は興味深いが本筋から外れるので後日。

 

不謹慎ではあるが、うちの中学校にもこれと同じような制度があった。

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まあこんな感じ。上から下にかけて身分が低くなる。

大事なのは、「特権階級であるサッカー部野球部」以外の人たちは、こんな身分制度なんて望んじゃいない、というところ。

 

だから、別にバレー部がその他部活動を殴ったりはしないし、陸上部(その他部活動に属する)が帰宅部を殴るような……

弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く

 

なんて展開はないのである。ほとんどは平和主義だったから。

 

ではカーストは何なのかというと、以下の二つの場合に活用されていた。

 

1、横暴グループが誰かに誰かを殴らせる場合

2、殴りやすさを決める場合

 

1については、例えばバレー部のAくんと帰宅部のBくんがいたとしよう。

Aくんにグループが(というか主犯格のFが)命じると、AくんはBくんを殴らなければならなくなる。

なぜかこの逆はほとんどなかった。帰宅部のBくんがバレー部のAくんを殴る、というように。恐らくこのカーストは友好度に関わっており、彼らにしてみれば対極の存在である帰宅部のほうが、見てて鬱陶しいのだろう。

 

2については、まあ普通に、カーストが上の人より、下の人のほうが殴られやすいという話だ。おそらく機嫌が悪いときに優先して下の人を殴るのだろう。

 

私は帰宅部だったのだが、中学1年の終わりごろ生徒会に入ってそれなりの役職についたので、暴力を受けることはほとんどなくなった。正直助かった……!という気持ちだったが、他の人たちが蹴られたり殴られたりしているのを見るのは辛かった。

前述したように、告発してもどこからか情報が漏れていじめられるのが怖かったので、何ともできなかったのもまたきつかった。早く卒業したかった。

 

例外もある。それがカースト一番下の「一部の不可触民」だ。彼らは学年に2,3人のある意味稀有な存在で、小学校からずっといじめを受けてきた。そして読んで字の如く不可触民……誰もそれについて触れようとはしなかった。

極端に嫌われていたので、横暴グループでさえ殴ったり殴らせたりしない。

いわば存在しない空気のような人達だったが、ずっと無視されているのも見ていてかわいそうだった。

 

地獄の肩パンゲーム

一つゲームを紹介したい。中学校で流行っていた(というかやらされていた)ゲームだ。

退屈してきたら友人とこれをして遊ぶといい。

 

ただしルールがある。

 

まず、開催地や開催時間は問わない。横暴グループがしたいと言えば従うしかないのでどっちみち裁量はこっち側にない。考えても無意味。

グループから一人選出、一対一のデスマッチ形式。

じゃんけんをして、勝ったほうが負けたほうの肩を殴る。その際、

1、グループのメンバーは、相手を本気で殴ることが許される。

2、グループじゃない側がグループ側を本気で殴ることは許されないから弱気で殴る。本気で殴るとグループ全員からリンチに遭う。

これをグループの気が済むまでやる。途中で逃げることは許されない。

 

つまり、このゲームは「肩パンゲーム」という名前をしただけの人外鬼畜外道系グロテスクコンテンツだったのだ。我々にとってみれば参加するメリットも全くなく、ただ殴られて終わり、向こうはストレスのみを発散できる形だった。

 

 

卒業して高校入学、とある事実に驚愕

何やかんやあって暴力行為をほとんど受けることなく卒業、高校に入って真っ先に驚いたのは、「えっ、サッカー部とか野球部って人を殴らないのか!!」って事実だった。

それを高校のサッカー部の子に言うと、半ば顔が攣っていたのを覚えている。

そう、彼らは何より我々運動苦手民に優しかったのだ。ちゃんとパスを出してくれ、シュートを外しても怒らず、ポジションまできちんと決めてくれた。

高校3年の時、私のチームが球技大会のサッカーで優勝したことは良き思い出だ。

 

もし彼らに出会ってなければ、私の中でのサッカー部や野球部へのイメージはずっと「不機嫌なときに人を殴ったり蹴ったりカツアゲしたりする人達」で固定されていただろう。感謝多謝。

 

そのぐらい私たちの中学校の奴らは野蛮でクズでどうしようもなかった。今思えばよく勉強に集中できたなと思う。

当然、教室にいたら肩パンゲームが始まるから、人気のない図書館で本を読み漁ってたわけだけども。

 

まあ、それだけの話。もう時効かなと思って書きなぐった。

書いてスッキリした。アナタの中学校ではこういう経験ありました?

私のところが珍しかっただけなのかな。

チキン南蛮は鶏肉じゃなくてソースが本体説

ずっと気を張って書いていると疲れてくるので、今日はどうでもいい記事。

皆さんもリラックスして読んでほしい。

 

かなり前、食堂でチキン南蛮を頼んだら、「唐揚げにタルタルソースがかかっただけのナニカ」が出てきて、「これがチキン南蛮かー!!」と叫びたくなったことを思い出したので、今日は食べ物について扱ってみよう。

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(https://cookpad.com/recipe/102203より。ああ食いてえ……)

 

チキン南蛮とは

チキン南蛮をご存じでない日本国民はきっと5%もいないのではないだろうか……。私の親戚が住む宮崎県延岡市発祥の郷土料理が全国区にまで広まったもので、新鮮な鶏のモモ肉(またはムネ肉)を揚げ、南蛮酢にさっと通し、自家製の(多くはタマゴ、タマネギ、マヨネーズ、キュウリ等を和えた)タルタルソースをかけて作る。

料理方法はただ「漬ける」「揚げる」(と「和える」)だけで、ごまかしは効かない。

肉じゃがの次ぐらいに料理人の腕がわかる料理と言ってもよかろう。

唐辛子を辛み付けに入れるところもあるとWikipediaには記載してあったが、私は見たことがない。

 

その親戚の家に行ったとき、「本場」のチキン南蛮を作ってもらったことがあるが、南蛮酢とタルタルソースがまた旨いのなんの。新鮮な鶏肉にしっとりと絡みつく衣、その油っぽさを上手い具合に中和してくれる酢と、酢独特の臭みをちゃんと消してくれるタルタルソース。

鶏肉特有の臭みがなく、やはり本場の鶏は違うなと感心していたら、ちゃんと匂い消しをやるのだそうで。現地の人はすごいよ。

 

それに比べて食堂のチキン南蛮ときたらどうだ。使用者たちの優しさに甘んじて(出典不明)、衣の付け方さえびちゃびちゃな唐揚げのものにタルタルソースをかけただけで、「チキン南蛮」という名前だけを頂こうとするその精神の未熟さ、卑しさよ。

端的に言って都合が良すぎるのだ。

おまけに甘酢がついてなかった。衣は百歩譲るとして、「南蛮」の名を拝するからには南蛮酢が付いてくるのが当然だろう!

なお780円でした。二度と行かねえ

 

だが、このような例は意外と多かろう。私も既に5回ぐらい、「タルタルソースを唐揚げにかけてみましたテヘッ☆」という、屁でもない料理をチキン南蛮と偽って出されたことがある。

この人たちは本当に本場のチキン南蛮を食べたことがあるのだろうか。化学調味料に誑かされて麻痺しきった舌が、ほっぺたが落ちたことはあるか。

否、ないだろう。あればとっくに料理人としての誇りを取り戻し、マジモノのチキン南蛮に原点回帰しているはずだからだ。

 

 

……などと思っていたら、その考えさえ思い込みであることが証明されてしまった。

その親戚が住む遠い遠い宮崎県に合宿免許を取りに行ったときのことである。

昼食にチキン南蛮が出てきたのだ。

……唐揚げに、甘酢と、タルタルソースをかけただけの。

 

これが本場か!誇りあんのか!

 

というのが私の本音であったが、その不安な期待は見事に裏切られてしまった。

これがまた、旨いのだ。

チキン南蛮はその構造上、半必然的に衣と鶏肉が分離してしまう運命にある。なぜなら一枚の分厚い肉をそのまま食べるわけにはいかず、だいたいは包丁でタテに切るからだ。ちょっとつまんだだけですぐに分離する。これはもう、生まれもっての宿命、前世からのカルマと呼ぶしかない。カルマ南蛮。

 

唐揚げはその面違う。衣の相当厚いものでさえなければ、簡単には剥がれない。

そして、衣のしっとりしたチキン南蛮こそモノホンだ!と疑わなかった私だが、揚げたてサクサクの唐揚げチキン南蛮の前には敵わなかった。

香ばしい衣の香りにお酢の甘酸っぱさが作用して実に旨いのだ。それを後押しするかのようなまろやかタルタルソース。マヨネーズの酸味をタマゴが打消し、変わりばんこに登場するはみずみずしいキュウリ。全体的に味付けが濃く・くどくなりがちなこの料理を裏で支える役に徹している。味の組み立て工場や~

 

私の箸はもう止まらなかった。その日、人生で初の「ご飯4杯おかわり」という偉業を成し遂げたので、教習車のシートベルトを締めるときに結構きつかったのを覚えている。

ご飯の山に登頂する夢を見た。

K(コメ)2登頂。

 

……というような感じで、私のチキン南蛮観は結構ズタズタというか、まあいちいち話さないけどこの前にも食のコペルニクス転回が何度か起こっていて、そのたびに「やっぱ衣はサクサク派やな」「いやいやしっとりか」「肉はプリプリしてるのが勝ち」「ちょっとぐらい固くないとね」なんて、きっと某岩田純一さんも裸足革靴で逃げ出しそうなウワキ南蛮人生だ。

しかし今回、ついに止揚の極みにたどり着いたので、ここに報告しておく。

 

ソース(甘酢・タルタルソース)が旨ければ、だいたい旨く感じる

 

のだと。

すなわち、今までに起こってきた価値観の転回は全て「衣」とか「肉」に関するものであり、「ソースが美味しいチキン南蛮に対して言えば、あまり文句はなかったナァ」と気づいたのだ。衣がサクサクだとか唐揚げ風だとか肉が柔らかいとかいろいろ要望はあるにしろ、その要望は全部「ソースが美味しい」という前提の上に成り立っているのだと。

肉が主役のように見え、実は肉を裏から全力で支えている美味しいソースたちがなければ、肉もただの唐揚げか、それに近い何かと化してしまう。

逆に言えば、衣がだいたいびちゃびちゃでも(まあできれば食べたくないけど)、ソースが美味しければ、口にできないこともないのではないか、という思いつきである。近いうちに実験してみようと思うが、いかんせん油料理は作るのが面倒なので、いつになるやら。

 

 

皆さんのお考えを仰ぎたい。

 

……もちろん、もう一つの説もあるにはあるが。

 

第二の説・味音痴

単に私が味音痴で、悪い言い方をすれば「ソースにごまかされているだけなのだ」という説。ただこれは私だけでない、その背後にあるソースの権力をも否定することになる。

……すなわち、ソースにごまかされているだけだ、と私を批判する人間は皆、その時点で、「ソースにごまかされない繊細な舌を持つことを自負します」あるいは「本物のソースを見分けられます」という書類にサインしているも同然であり、南蛮酢やタルタルソースの魔力から、一生逃れ続けなければならなくなる。

私は既に自分が味音痴であることを認めかけているが、それと同じくらいにソースの魔力にも取りつかれている。

みんなもほら早く食べて、幸せになろうよ。

 

歴史や語源など

チキン南蛮の「南蛮」は、魚の南蛮漬けという料理名に由来するようだ。そして南蛮という言葉はさらに、江戸時代、ポルトガルやスペインを指し、油やスパイスやハーブを使う「南蛮風の」料理ということで、南蛮漬けになったという。(コトバンクより)

チキン南蛮という料理は世界史と日本史の交差点で生まれたが、それは必然的だったと言ってよいだろうか。鶏肉は昔の日本では食の対象としては見られておらず、(※)「チキン南蛮=鶏肉=日本料理=伝統的」と見るのは早い。

むしろ、鶏肉を南蛮漬けにするという斬新すぎる発想を思いついた当時(昭和30年代のとある宮崎の食堂の)料理人に賛美を送ろう。

 

送ったあと、皆でさあ食そう。本場のチキン南蛮を。

コメントなどもらえれば、オススメの店ぐらいは紹介できるやもしれませぬ。

 

それでは。

 

(※)

お肉のことならなんでもわかる!食肉なんでも大図鑑

より。

ポジティブ思考とやらがどうしても肌に合わない人へ

Rodin's Thinker

(http://www.kyohaku.go.jp/eng/dictio/choukoku/49rodan.htmlより)

 

今思い悩んで苦しくて、明日を頑張れないかも……という人がいたら、これを読んで元気を出してほしい。

 

先に断っておくが、私は決して「自殺をしよう!」とか「君は生きる価値がないから早く死んでいいよ」みたいな煽った・極端なことを言いたいのではない。むしろ要旨としてはその真逆だ。死なないためにこういうことを言うのである。

 (この話はいつか「逃げる」ことが前提になっている。実際に難病で苦しんでおられる方や、借金返済のため汗水たらして働く方へ拡張できる……などとは考えていない。あくまで、過去の私のように、「きついし辞めたいけど決心がつかない、でもこれ以上続けると病みそう」という方へ向けて書いている。そこを留意されたい)

 

私という凡人が生きる上で、病みかけていたときに結構心の救いになったことをつらつらと述べていくだけだ。N=1なので、日本人や国の話に仕立て上げるつもりもない。こういう話があるんだな、ぐらいにきいてほしい。

 

今、生きる活力にあふれていて、何をしてもお天道様に感謝できる、という方は、素直にブラウザバックしたほうがいいかもしれない。

 

パワハラ?

私が心を病みかけたのは、部活においてだった。

特定などを防ぐため詳しくは言わないが、いろいろと崩壊していた顧問の教師からかなりきつい指導……もとい、パワハラじみたことを受けていた。

ここらへんはパワハラということばの定義によりいくらでも変わってくるが、言葉遊びに伍するつもりはない。「私がパワハラだと思ったものがパワハラだ」なるジャイアニズム精神で勝手に定義した。(友人に話すと本気で同情されるレベル)

 

それは一昔前の人間にしてみれば、「しごき」「指導」ということばで済むぐらいのものだったに違いない。

何が言いたいかというと、ただ私の精神力が並より低く、愚直な性格で罵倒を受け流すことができなかったばかりに、病みかけた……というだけの話である。

まあそりゃいろいろ言われたが、叩いたりとかはなかった。というかこれで手を出されてたら即誰か別の先生に相談してたと思う。

 

今思えば、先生は自分の想いとかをまっすぐ言えない、かなり不器用な人だったんだろうな、と感じる。怒ってしまうタイプ。

私だけじゃなくて、だいたい誰に対してもそうだった。

 

大事なのはそういう事例じゃなくて、私が病みかけていたという事実。

某シマウマブクマカーさんは「大脳が壊れて人間にさえ成り損なった哀れなメンヘル、この記事を病院にプリントアウトして持っていこう。お大事に」とか言いそうだけど、全然笑いごとやネタにならない。あ、毎日瞑想してます。

外から見る分には一方的な憐情や皮肉を押し付けていいのかもしれないが、当人は必死だ。

私も例外ではなかった。

 

その必死ぶりはきっと当時の日記にも表れている。

かなり恥ずかしいけどここに晒してみたい。まあずーっとこんな感じ。辞める直近3か月ぐらいは。

 

もう疲れた。あの〇〇め何度同じことを言えば気が済むんだ。

辞めたい。このままだと辞める前に死んでしまいそう。

〇△×〇〇×(読み取れない)

 

何のために生きてるのかわからない。

ついに食事が喉を通らなくなった。

眠れない。涙が出てくる。もういやだ

 

体重が10㎏減った。これ以上痩せたら質量がマイナスになりそう笑

最近何をしても楽しくない。つまらない。世界が単色になった

 

〇〇先生が夢に出てきた。ひたすら怒ってた。

目が覚めたら涙が。学校行きたくない

 

辞めようかな?って聞いたら「もうちょっと頑張ってみたら」って。

頑張ってんだよこっちは。とっくに。

勝手に辞めようかな。学校と反対側のバスに乗ってどこか遠くに行きたい。誰も知らない遠くの街。

 

目覚めたら心臓が止まってて死んでた、とかがいいな。

いつ毒が回って死ぬのかしら。

自分より不幸な人が世界に山ほどいる事実は、当の本人には何の意味も励みももたらさない。それを知ったところで結局自分が不幸なのには変わりないから。

 

弁当を残すと親に心配をかけるから、無理やりにでも押し込む。そうして部活の前にお腹が痛くなって、30分は出られない。

いっそC4でも食べてみようかな。甘いって

 (C4...コンポジション4、プラスティック爆弾)

 

死ぬ気でやれば何でもできるってふざけんなよ。

何かをやる気力さえ残ってないってのに。

 

「辞めたい」ってことばが周りにとってはどうでもいいんだよな、きっと。当事者の不幸は他人の無関心か、幸せか。親でさえ。

 

 

「仕事なんかで病む人の気が知れんわ」と思っていた自分が、わずか数か月で食事が喉を通らなくなって10kg痩せて視界の端が歪んで見えるようになって気づけばホームセンターのロープのところにいたりしたぐらいだから、きっと正常な人間でも病むとこうなっちゃうんだろうな、ってので。まぁ参考程度に。

今はさすがに消したけど、電子辞書のテキストメモに遺書を書いてたこともある。

 

「いつでも死ねる」という不謹慎な態度

で、そういうとき、私はどうやって自分を奮い立たせてたのか、って言うと。

それも日記に残ってる。たまにこういうことを書いてる。

 

いつでも死ねるんだ。人間なんてもろくて儚くて、明日のことさえわからない。

こうやってバスを待ちながら日記を書いてる今にも、大通りに飛び込めば散るし、ビルから身を投げ出せば終わりか?または家の包丁で切り刻んでみるか。

そうしたい気持ちでいっぱいだけど、何とか持ってる。

 

 どうして持ってるのか、ってのが。次の日の日記ね。

 

カッターナイフを持っていって、いざとなったら〇〇の前で首切ってやればいい。もしくは〇〇で降りて〇〇でロープを買うぐらいの金はいつも持ってる。

ただ、いつでもやれるから、やらないだけだ。

そういうことにしよう。

 

私はそう、「人間死のうと思えばいつでも死ねるんだから、別に今日急いで死ななくてもいい」という不謹慎な思いで何とかその日を生きていた。

 

要するに、後ろ向きに前進していた。

(前進ってかホフク前進か) 

 

これは当然、明日を生きたくてたまらない、難病に現在進行形で立ち向かっている人たちや、飢餓や戦争で辛い想いをしている人にとってみたら、不遜極まりない態度だ。

そして本来コントロールできないはずの生死を自分で決めてしまおうというのだから、神への冒涜行為にも等しい。

 

それを「冒涜だ」「死ねというのかこの人外鬼畜外道野郎」「お前より辛い人は山ほどいるのにそんなことで悩むな」と言われるのはしょうがないこととして諦めているし、たぶんそれは事実だ。

しかし、私にとってみればこの不遜な態度こそが、辛く苦しい数か月を生き延びる支えになったのもまた事実。

 

だから、ごく一部の人間……

特に、「頑張れば何でもできる」とか「世の中にはアンタより不幸な人間が山ほどいる」とかいう何の役にも立たない励ましを(相談してもないのに)されて、傷ついてる方には、少しぐらいこのアドバイスが役に立つんじゃないかな、と推測している。

 

「楽天的」ということばが徹底的に馴染まない人格

どうしてこんな後ろ向きで不謹慎な考えで生き残れたのか(身を投げ出さなかったのか)、ということを改めて考えてみると、それはたぶん私が徹底的に悲観主義で愚直だったからじゃないかな、と思う。逆説的だけども。

 

私は言われた言葉全部を素直に受け取りその一つ一つに心を切られていた。あれを言われたこれを言われた、全部日記に書いているが、今読むとそんなに真に受けるほどのことがらでもない。

立派な人格否定も混じっていたが、ブログを始めて思うのは、人格否定なんかに時間を費やしても何もいいことがない、という事実だ。

先生も機嫌が悪かっただけで、悪気はなかったんだと思う。

 

こういうとき英語にはnaiveという便利な単語がある。日本語のナイーブと違い、「悪い意味で純粋、傷つきやすい」という意味らしい。私はまさにnaiveだった。

だから日本語にすると「悲観主義で愚直」が近い。

 

そしてそういうたぐいの人には、「何も考えない」とか「なんとかなるさ」の精神はあまり適用できない気がする。私だけかもしれないけど。

 

そもそも悩む人ってのは、「悩みたくて悩んでるわけじゃない」というアタリマエな点に留意しなければならない。

「考え込んでしまって、だんだんマイナスにはまりこむ」ので、そういう人に「考えるな」というのは、何だろう、小食で痩せてるのを気にしてる人に対して「お前は痩せてるからもっと食え」って言うのと似ている。

 

そして、「考え込んでしまう自分」に対してますます腹が立って、もう本人もどうしようもなくなる。その思いを吐き出す相手もいない。

 

(相談されたとき、励ますというのは当人にとってみればすごくありがたい行為だけど、naiveな人を励ますときにはここに留意するといいのかも)

 

抜けるほうが楽だといつか気付ける

変なふうに考え込まないためにも、「自分はいつでも死ねるんだぞ!」という心の準備(勇気なき覚悟ともいう)を予めしておく。

 

とても不謹慎な物言いだが、いつでも死ねるというのは、現世の(ココ大事、地獄天国云々の話はしていない)あらゆることから自由であることと同義であるからだ。

死んだらおしまいで、考え込むことさえもできなくなる。

そして、その行為が周囲にどれだけの迷惑と悲しみをもたらすかなんてのも、当たり前だけど死んだら考えることができなくなる。

 

一歩間違えれば本当にやらかしてしまいそうでもあるが、実際これが何とかなったりするのだ。というか私は何とかなった。

 

なぜなら、死ぬ準備をして、本当に死ぬ……よりも、その環境から抜け出すほうが絶対に楽だといつか、「自分で」気付くからだ。(抜けだせる環境ならば、だが。)

 

実はここが大事で、いくら「そんなにきつければやめればいいのに」というアドバイスをもらっても、私はそう簡単には動けなかった。考え込んでしまうから。

そんなのこの時期に言えないよ……辞めたらますます学校行きにくくなるじゃん……部員の人と喋れないよ。先生と会ったらどうしよう

って。余計なことまで考え込んでしまうのだ。だから辞められなかった。

(事実、辞めてからは顧問と廊下ですれ違ったとき、挨拶をこちらからしても全部無視されたが)

 

でも、死ぬ準備を心の中でしておくと、次第に

あれ、なんでこんなことなんかで死のうとしてるの?

辞めたほうが楽じゃない?

という意識が芽生え、段々と悩んでることが馬鹿らしく思えるようになった

(これが他の人に100%適用できるなどとは思ってもないし、たぶん楽天家には一生共感されないだろう……と思う)

 

他の部員に対しては非常に申し訳ないなと思いながらも、心の健康をこれ以上害するわけにはいかん!と決意し、辞めるに至ったわけである。

ちなみに先生との最後の会話は、「お前、逃げるんやな。ホンット最低やな」だった。

はい、最低野郎ですみません。逃げます。

 

そういうわけで、この「後ろ向きに前進する」戦法が、今何かに苦しんでいる方に少しでも役立てばと思い、この記事を書いた次第である。

楽観的なのをディスるつもりは毛頭ないが、合わない人だっている。私みたいに。

「どんな状況でも笑顔でいろ!」「弱音を吐くな!」「精神的に強くないからそうやって泣き言を言うんだ!」なる類の、いわゆるポジティブシンキングの極みがどうしても肌に合わない人は、一部参考にしていただければ幸いだ。

言語の『優劣』【その2】

なんか最近愚痴ばっかで全然知識系の記事書いてないので久々に頭の中から引っ張り出して来ようと思う。

www.chishikiyoku.com

 

3月24日ってもう1か月以上経ってるやん。

クソクラエじゃ。

 

で、頭の中から存在自体が抹消されていたこの記事の続きがどうして書かれなかったのかというとですね、それは単純に記事のリライトなんて作業をしてないからなんです。SEOとやらには絶対リライトがいいらしいんだけど、元々書きたいことだけを書きなぐるというスタンスで始めたので、オカネの話は中でも外でもしたくない……という感じ。まあいいか。

 

id:pony7330kunさんからコメント頂いたので思い出しましたが、彼(彼女)なしには一生完結してなかったと思います。

 

……まあそういうわけで、授業を始めましょう。

 

前回のおさらい!

客観的に言語を測ろう!そうしないと優劣なんて比較できない!おさらい終わり!

 

複雑さとは何か

優劣を比較するとき必ずと言ってよいほど俎上に載るのが『難しい言語は劣った言語で、易しい言語は優れた言語』というものの見方だ。これがどういうことなのかを考えてみようと思う。他にも表現力の豊かさとかいろいろあるけど、とりあえず今日はこの、難易度で言語を測る方法について。

 

ここでいう難しいと易しいは、まあ一般的に考えたら以下の基準の数などから判定されるものであろう。

 

  • 文字体系の数
  • 語彙の数
  • 記号(文字)の数
  • 性の数
  • 格の数
  • アスペクトの数

 

文字体系というのはまあ何だ、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「英語のアルファベット」「ロシア語のアルファベット」……等々、その言語の中で使われている一つの体系のことだ。単純に、1つの表にまとめられるものを一つの文字体系と呼ぶ。

日本語は少なくとも3つ使う。中国語や英語やドイツ語やスペイン語やロシア語は1つ。ルーマニア語は最近まで2つだった。

 

語彙は言わずもがな、ことばのことだ。

 

文字の数というのは、たとえばひらがななら約50個、アルファベットなら26個など、一つの文字体系が所有する文字の数のことである。(ただ日本語のような例外的な言語では、いろんな文字体系を使い分けるので、必然的に文字の数も多くなる)

 

性というのはまあ……前回の記事を読んでほしい。

www.chishikiyoku.com

文法上の性は、単語のカタチに影響を及ぼす。例えば同じ形容詞であっても、男性名詞につくときの形と、女性名詞につくときの形は異なる

ため、性の数が少ないことは、必然的に覚える量が減ることを示す。

 

格の数とは、日本語や中国語や英語にはない文法上の概念で、簡単に言えば「本は」と「本を」「本に」などでは、同じ本であっても文章中での使われ方が違う。(「は」の場合は主語として、「を」では目的語として、「に」では対象として……などなど)

そういうとき、ヨーロッパの数多くの言語では、「本」という単語の語末を変えて、文章中での働きを示すことがよくある。

 

まあなんだ、同じ「私」でも、英語ではIになったりmyになったりmeやらmineになったりするのが、他のいろんな名詞でも働く……と思えばよいのだ。

ドイツ語は4つ、ロシア語などは6つある。ラテン語も6つ。ギリシャ語も6つ。

……6つってかなり多いけどね。

 

アスペクトというのは、動詞の状態を表すための文法形式のこと。

簡単に言えば、「座る」が基本形として、これを「座っている」とか「座っていた」「座りかけた」「座り始めた」みたいにして、どれくらい動詞の状態が完了してるのか・完了してないのか、を表すことができるようなもん。それらをアスペクトという。

英語で言えば現在完了形とか過去進行形とか。

ちなみに悪名高い?ロシア語には完了体と不完了体があって、なぜか同じ意味の動詞なのに全く違った風に書くものなどもある。正直やめてほしい。

 

さて、今までの議論をまとめれば、当然こうなるはずである。

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アスペクトが多いか少ないかってのは日本語として変なんだけど、

まぁ日本語と違ってスペイン語は点過去と線過去によって、その行為が完了なのか習慣なのか使い分けるからスペイン語のほうがアスペクト多いとか、

日本語には未来形を表すためのことばがないから他の言語より少ないとか、そういうくだらん話だと思ってくれればいい。便宜のため一応多い少ないにしてるだけ。

 

当然、文字や語彙や性や格変化が少なくなるほど、覚える量も少なくなる……というのは、実感として納得してもらえると思う。

では、そういう言語の方が優れた言語だ!ということでよいのだろうか?

 

実はここまでがよく交わされる言語優劣論であるが、ここで終わってしまう人は大きな見落としに気が付いていない。

つまり、本当に覚える量が少ない言語が優れた言語なのか!という部分を前提として隠してしまっていて、「覚える量が少ない。よって優れた言語である」という結論を、「優れた言語とは覚える量が少ない言語である」という前提によって先取してしまっている。

 

こいつ何ゴチャゴチャ言うてんねん!って方はお進みください。

この前提が実は必ずしも正しくないことを説明しますから。

 

その前に、一つだけ用語の説明をいいっすか。 

 

 

言語の二重分節性

我々が話す言語というのは、ほぼ間違いなくと言ってよいが、まず土台のところが共通している。

それが「二重分節」だ。分節というのは、「分ける」ことだと大雑把に捉えてみよう。

 

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まあすごく当たり前のことだけど、「私は明日病院に行く」ってのは文ね。

でも、この文ってのはもっと細かく区切れて、

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こういう風になる。することができる。

英語やらドイツ語みたいな語と語の間にスペースがある言語ならなおさら楽。

中国語は一文字一文字が語。(熟語もあるけど)

 

これで何が言いたいかというと、

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という風に、文を語に分解することができる。

それは、物質を分子のレベルにできるとかそういうたぐいのものだと思ってもらってよい。

 

ここに第一分節が現れる。

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つまり、1つの文章というのは必ずのレベルに分解することができる、というのを、第一分節と呼んでいるにすぎない。

 

でも、これで終わりじゃない。実はもう一個隠されている。

「私」というに注目してみよう。

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この「私」ということばは、当然ながら書きことばだけのものではない。

つまり、発音ありきの書きことばということだ。これはどう発音するか?

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こういう時、日本語では便利なローマ字というものがある。このローマ字がそのまま発音記号になっている、と考えてよい。(厳密に言えば、音声学、発音記号専用の記号を使う必要があるが)

この"watashi"という発音は、すべてがひとつながりというわけではない。

当然ながら、こうやって成り立っている。

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(ちなみに、「し」はshiじゃなくてsiじゃないかという指摘をされる方はなかなか鋭い。実は日本語の「し」はsiじゃなくてshiが正しいのだ。siだと「すぃ」になってしまう。なぜかと問われれば、他の言語(英語)でそう決まってるから…としか言えないが)

 

つまり、の中にも、まだ細分化できる単位がある、ということだ。

これを「音」という。当たり前の話。

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こういうこと。

そしてやはり、

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これを第二分節という。

 

ということは、ある種の入れ子構造ができていることに気付くだろう。

 

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  • 文章はいくつかのからできている。(第一分節)
  • はいくつかのからできている。(第二分節)

この、あらゆる自然言語に見られる、入れ子構造になった二重の分節構造を「二重分節」と呼ぶ。

 

面白いのは、これが人間の話すことばになら、どんなことばにも共通するということだ。未開の地で人々が話すことばを調べてみようと、二重分節がない言語というのは存在しない。

もちろん「今のところ」という前提だが、きっとこれまでもこれからも、二重分節がない言語はないだろう。

どうしてこんなめんどくさい仕組みなのかというと、それは当然「人間が生物である以上、何らかの生物学的制約がある」からだと言える。

 

制約というのは何でもいい。

例えば、口の大きさだとか、聞き取れる周波数だとか、聞き分けられる音の数だとか、覚えられることばの数だとか。

そういうものをひっくるめて「生物学的制約」と呼ぶ。

すなわち、我々は自分の体の限界を知ってか知らずか、限界をオーバーしないながらも、ちゃんと意思疎通を取れるようなことばの仕組みを、いつの間にか創り出してきたのだ。

 

二重分節が生み出す無限のことば

例えばこう考えよう。今、kとbとtとsとがある。これが子音。また、aとeとiがある。これが母音。これらを「音」に持つ言語を考えてみよう。

子音と母音とを一つずつ組み合わせて「語」を作るとすると、作れる「語」の数は一体何個ぐらいになるだろうか。

答えは4かける3で12。

ka,ke,ki,ba,be,bi,ta,te,ti,sa,se,si

つまり、子音4つと母音3つがあれば、その時点で既に12個の「語」が作れることになる。

では、この「語」の群から2つを重複ありでランダムに選んで「文」を作ると、一体何個ぐらいの文が作れるだろうか。

答えは12かける12で144。(もう書かない)

既に144個の文が作れちゃうのだ!

 

実際には、(極端に発音しにくくなるとかでもなければ)音をいくらでも重ねていいし、語だっていくらでも重ねられる。

作れる文の数はいくらでも大きくなる。

つまり、二重分節を獲得するというのは、ことばの中に無限大の世界を作ることと同義なのだ。

我々はこの仕組みを手に入れてから、あらゆることばの組み合わせをつくることができるようになった。

これが、二重分節のいいところである。

 

……で、どうしてこんなことを説明したかというと。

「音や語が少ない言語=暗記が少ない言語=優れた言語」という言語優劣論が間違っていることを示したかったからだ。

 

必要に迫られてできた言語

なぜなら、言語そのものが、「人間が意思疎通する」ために、仕方なく作られたものだからだ。というと語弊があるから、「必要に迫られて」できたと言い換えてみよう。

それは言語の二重分節性を見れば明らかであるが、このようなめんどくさい仕組みは、我々がある程度の精度を持って意思疎通することと、人間としての記憶力や発音の限界を超えないこととを両立させるためのもの。

 

その前提に立ってみれば、あらゆる自然言語は「必要に迫られて」できていると言えるだろう。であるならば、自然発生的にできた言語は全て、「必要なもの」を兼ね備えた言語だと言える。外国語から見てそれが「必要でない」ように思われるのは、自分の言語にその要素がなかったり、逆にあったりするためだ。

不便なところは付け足し、過剰で面倒なところは省略され、残ってきている。

 

しかし、「人間」という種自体に極端な個体差があるわけではない。

記憶力や口の大きさなど、生物学的制約はやはりどんな人種とて超えられない(そもそも人種という括りで人を分けるのがナンセンスなのだが…)。日本人もドイツ人もアメリカ人もイギリス人もユダヤ人もアイヌ人も、皆人であり、共通の制約を神様から与えられている。

であるから、二重分節のような仕組みがどんな言語をとっても共通しているのだ。

 

そして、日常生活で必要とされることがらの数というのもまた、そんなに異ならない。

当然ここにも、人間はそんなに多くのことを覚えてられない、という、生物学的制約が絡んでいる。

例えば旧来の日本人は魚を食べていたから、魚に関することばが多いだろうが、海に囲まれていない国の人たちがそうだったかというと、疑問だ。

むしろ、例えば放牧をして暮らす人たちの間では、放牧のためのことばが多く話されているに違いない。しかし、日本人はそのためのことばをあまり知らない。

それはただ、遠いか、近いかの違いでしかない。

 

要するに、人間の生物学的限界が、「日常生活で必要とされることばの数」を定め、その必要に応じてことばが生まれたのだから、全体的な総和としては「暗記する量」とやらはあまり変わらないんじゃないか?というのが、私の考えである。

 

もっと簡単なことばで言い換えると、ある部分が簡単なら、他の部分でバランスを取っていると言ってよい。

 

日本語は文字体系も文字の数も多いが、その分学習すれば可読性がかなり高い。

また、話すだけなら発音もかなり簡単だ。

英語は格変化や性の概念がほとんどないが、その分発音は文字によって異なる。boroughの"gh"と、enoughの"gh"の発音が違うのはどう考えてもおかしい。が、全部手探りで学ぶしかない。

ロシア語は格変化が煩雑だが、その分学習してしまえば、語順というものに縛られる必要がない。

中国語は漢字が多く書くのが大変だが、格変化や時制の概念がない分、そっちに気を取られる必要がない。

 

よーするに「バランス」なのだ。

とっつきやすさなどは個人差があるが、どこか一面だけを取り上げて「この言語は簡単で優れている!」と、決めつけられはしないだろう。

 

優劣をつけること自体がタブー!と言うのではない。

必要に迫られて生まれた数々のことばに優劣をつけるのはきっと難しいし、そんなことをするためには数千の言語全てを学ばなければならないので、する専門家もいない、というのが、実情である。

 

したいならやってもいいと思うが、その優劣リストを一体何人が信用するだろうか……

以上5000文字の駄文でした。お読みいただいてありがとうございました。

さすがに大学の授業中にゲームはいかんでしょ

高い高い授業料払ってんのさ。なんでゲームなんてできるんだろう?単位落とせ(笑)

というのは、私の友人がこの前口にした迷言だ。

 

昼飯の後で眠いのはわかっている。私も恥ずかしながらシャーペンを握ったまま、意識だけが深い森の奥の奥を駆け抜けていた。船をひと漕ぎ、ふた漕ぎ。頭の重心は安定せず、首の座らぬ赤子のようにこっくんこっくん。

が、さすがに、授業中なのにゲーム機をいじるほど心臓に毛が生えてはいない。

 

こいつらめ。

 

彼らはこのガチガチ数学系の授業にて、黒板の呪文みたいな数式を写すのにも5分で飽きたと見える。最近発売されたばかりの「モンスターハンターダブルクロス」とやらをやっていた。机の下で。

 

別に文系の生徒をディスってるつもりはないが流れ上犠牲にさせてくれ。

文系の人は「授業のコマ数が少ない」という理由で勝手に「メッチャスマホいじってそう」「化粧とかしてそう」みたいに思われてるのがウチの大学であることはお伝えしておきたい。

……が、残念。ここは理系の学部なのだよ。

理系なのだ。理系。しかも授業は数学。

 

どーやったらゲームする余裕があるんですか!

 

と叫びたかったのだが、授業が終わってから友人がふと口にしたのが上の迷言だ。

まっこと同感。

 

観察&検証

というわけで、秘密裡に観察してまいりました。

一番後ろの席に座り、そこからみんなを眺め、一体何人の生徒がスマホにゲームにツイッターに睡眠学習に明け暮れているのか……と観察するという、何が悲しくてこんな不毛なことやってるのか案件だ。

 

クラスがだいたい50人、60人前後。

それぞれを10秒間観察し、10秒以内に行為をやめたものはカウントしない。

また、重複カウントをしている。スマホもパソコンも見ていた人は、別々のところにカウントしている。

 

睡眠学習をしていたのは6人(意外と少ない)、

スマホをいじっていたのは7人、

パソコンを開いていたのは8人(これは、予め配布されていた「今日の授業」のパワーポイントのスライドを見ていただけかもしれないが、2人はツイッターの画面を開いていた)

教室の後ろのほうで3DSを開いていたのは4人(ボタン操作の音が聞こえる)。

学生たちを観察してカウントしていたのは1人(私です)。

 

以上の学生がいわば「授業以外のこと」をやっていた。

 

だがこれはうちのクラスの話であり、かろうじて女子が数人いるので、見栄か何か知らない謎の力がクラスの風紀を押しとどめている。

女子が一人もいないクラスだと「学級崩壊」とまではいかないが、それに近いことが起こっているようで、後ろの席の人はだいたい、机の下でモンスターハンターダブルクロスとやらをプレイしているらしい。

 

後ろの席に座ってたら「ボタン操作の音がうるさくて授業に集中できない」レベルのうるささだと聞いた。けっこうひどいのだろう。

 

一応付け加えておくと、うちの学校は決してレベルの低いところではないはずだ。むしろ世間的には「ほーん、まあまあ学歴あるんじゃね」と呼ばれる類の大学である。さすがに2chではけっこうdisられてるが……。

 そんな大学の学生たちが授業中にゲームをやっている、これはいかがなものかと思い記事にした次第である。

 

 授業料云々の議論は正当か

まずよくよく考えてみると、冒頭で紹介した友人のことばには確かに同感なのだが、これは論理的に正しいのだろうか。

前提として、何か大事なものを忘れている気がする。

 

自分たちが彼らを批判できるためには、「彼らと同じ立場にない」ことがまず必要だ。

 

(例外もあるが)太った人が同じく太った人を手放しでバカにはできないのと同じように、私たちが授業中にゲームに興じてないという前提が要るのである。

もちろん興じてなどいない。

 

しかし、そうだとすると彼らを批判してよい、ということになるのだろうか。批判するための必要十分条件が、ゲームをしないことだろうか。

 

つまり、外から見て『時たま(1か月に1回)授業中に船を漕ぐ私が彼らを批判する権利があるか』を考えると、そういうことでもないと思うのだ。少なくとも寝ることによって授業は聞けないのだし、授業料云々の言いぐさに同感する権利は、ないのではないか?

 

…………うーん。でも授業中に一度も寝たことない人だけが石投げられるって、そんなの厳しすぎるよなぁ。

 

ダメみたいですね、これは。

 

迷惑尺度の導入

そこで、新しい尺度を導入してみることにする。ずばり「迷惑尺度」だ。

公式はこちら。

 

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クッソ手抜きだけど読んでほしい。

迷惑尺度とは、みんながその行為をどれだけ迷惑に思っているか!!の指標だ。

 

単純に掛け算なのだが、五感への刺激の強さとは「触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚」への刺激の強さのことだ。

まあ早い話、うるさいと迷惑だし、臭いと迷惑だし、目障りだと迷惑だし、まずい……?と迷惑だし……という話。

そこに人数をかけることで、多くの人が迷惑だと思ってれば迷惑尺度(単位:メーワク)も大きくなる。

 

だがそれだけでは駄目だ。喫煙所でタバコを吸うことは「嗅覚」に強い刺激を及ぼすし、その匂いは周りの人間にも喫煙所にも移るから、「迷惑だ」……という誤った結論を防ぐために、「考慮係数」がある。

これはいわばTPOによって変化しうる数値のことで、「子供の目の前で吸っていたら1.2」とか「喫煙所で吸えば0」のようになる。

 

逆に、喫煙所に相応しくない行動……例えば用を足すだとか……をすれば、考慮係数はダダ上がりだろう。

 

迷惑行為の迷惑さを測る尺度としては割とよくできているという自信があるが、どうだろうか。

 

迷惑尺度からわかること

……この尺度によって言いたかったのは、「どんな迷惑行為も客観化できる!」ということではない。(そもそも感性は主観だから迷惑係数の導入でも客観化はできないし)

 

どんな行為も、「迷惑な時と迷惑でない時があって、迷惑な時にやれば嫌われるのは当然だ」という、ごく当たり前の推論なのである。

そして迷惑さを司るのは五感への刺激の大きさだけではない。それを感じ取る人数の多さだけでもない。それらの迷惑度もTPOによって変わってしまう、ということが言いたかった。

 

これを授業の話に持ち込むと次のようになる。

授業中に寝ることも、ゲームをすることも、両方「授業料を無駄にしている」という面で見れば等しく、片方が片方を糾弾することは不可能に思われる。

が、周りにかける迷惑度合いでいえば、間違いなく変わってくるであろう。

 

寝ることによって(いびきをかくとかヨダレをたらすでもなければ)授業を受ける他の誰かに迷惑をかけることはないが、ゲームは違う。ボタン操作の音は静かな教室に響き渡るし、横でガチャガチャやってたらけっこう目ざわりだ。

 

「いや、寝るのもゲームも迷惑度は同じだ!」という人がいれば、考慮係数を考えてみるといい。寝ることとゲームとで「五感への刺激の大きさ」「人数」が同じだと仮定して、授業という場をそのまま卒業式や入学式などに変えてみる。

 

そうすると、たぶん99人ぐらいの人が「いやお前ら式場でゲームすんなや」と思うのではないだろうか。それは自分たちの中の考慮係数において、以下のようなTPOでの判断が行われたからだと思う。

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赤丸で囲んだところ。式場でゲームすることには、恐らくかなりの抵抗があると思われる。葬式、結婚式、入社式、会社の面接……などなどなら、もっと大きいだろう。

そういう事例から考えていけば、「確かに授業中に寝るより、ゲームするほうが迷惑かも?」と実感できると思う。いわば、

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この部分、何も差がなかったのが、

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このように見えてきても、おかしくはないはずだ。

 

……というアイデアを授業中にメモる、というブーメラン

実はこの迷惑係数という発想は、授業中に生まれたものだった。

そして私は、忘れないようにパソコンを開き、「新しい記事を書く」ボタンを押して、最初の1千文字ぐらいを執筆したのだが、間違いなくその音はゲームの操作音よりうるさかった。

 

何が言いたいか。

 

ブーメランだっ!!

「ブーメラン」の画像検索結果

 

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(たぶんこう映ってるはず)

そう、私は人のことを棚に上げて「お前の行為はうるさくて迷惑だからやめろ」と言える権利なんてないのだ。

だから今度からはもう、授業中にブログを書いたり、コメントに返信したり、ブックマークをしたり、秀逸なブコメにグリーンスターをつけたりしません。

 

ちゃんと授業に集中しますから、許してください。

……単位落とさないように頑張ります。

xとχのような些末に拘泥する教師が数学嫌いを量産するのかも

この前教えていた生徒との会話。高校1年生。

 

「この前先生が、『お前らの書いているxはxじゃない、カイだから数学的に正しくない』と言い出したんです」

「カイ?」

脳内の予測変換機能を総動員しても、カイってのが何を言っていることなのかわからなかった。方程式の「解」?

「ギリシャ文字のカイだそうです」

そう言って見せてくれた教科書には確かにギリシャ文字の「カイ」が書いてあった。

なるほどそのカイか。

 

「で、これがどうしたの?」

「それはxじゃなくてχで、お前らの書いてるxは間違ってるから、ここで直せ、って。でも3年間ずーっとこの書き方だったので、今さら書き方直すのも嫌なんです」

 

今日はこの話をする。

 

xかχか

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まあお分かりだと思うけど、左のxってのが教科書に載ってるx。右のほうはギリシャ文字のχ。

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生徒はこうやって書いてたけど、これは間違ってるらしい。ギリシャ文字のχだから。

だからこう書くべきだとか。

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こっちが「正しい」x(?)

 

厳密に言えばこの二つは使い分けなきゃいけない。iとlを使い分けるようにね。

問題は、「χというギリシャ文字が高校の範囲ではほとんど登場しない」ということだ。統計学や電磁気学ではれっきとした、地位を得た文字として登場するが、高校数学の範囲でχを使うことはまずない。

 

「それで、教科書は何て書いてあるの?」

「これが一番後ろに載ってる書き方一覧なんですけど、両方載ってるんです」

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「ほんとだ、両方載ってる」

「でも先生は右のほうは見なかったことにして、『ほら、教科書にもこう書いてあるじゃないか』って、左で書くように言いました」

「もうめちゃくちゃじゃん。めちゃくちゃ」

「めちゃくちゃ」

 

さて、3年間ずーっと書き続けた文字の書き方をいきなり訂正しろと言われて、すんなり受け入れられる人はどれくらいいるだろう。そもそも訂正するメリットは何だろう。

それを考える前に、まず背景から説明したい。

 

人によってまちまち

生徒の書き方は

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こっちだった。

これを暫定的に「カイ派」と呼ぶ。

先生のいう正しいxというのは、

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こっち。これを「エックス派」と呼ぶことにする。

 

カイかエックスかというのは実は人によって違う。だいたい4パターンに分類できそうだけど。

 

  • 1、最初からカイ派だった
  • 2、最初からエックス派だった
  • 3、カイ派だったけど途中からエックス派になった
  • 4、エックス派だったけど途中からカイ派になった

 

こういう風に分類したのは、教える側がどう書くかによって生徒の宗派?も分かれてしまうことを示したかったからだ。

例えばこの生徒は、1番のタイプ。3年間ずっとカイ派で習ってきたから、自分もカイ派だった。私は4番のタイプ。中学1年のときはエックスだったけど、2年生のときの先生が「カイ派だとすらすら書けるからこっちでもいいよ~」と言っていたのでカイ派に改宗?。

しかし私の友人にはもちろん、最初からエックスで習い続けたゆえ、エックス派のままという人も、カイって書いてたけどなんとなくエックスに直した人もいる。

その裏には先生の影響がある。しかし先生でさえどっちで書くか統一できていない。

 

それもそのはず、そもそも「どっちが正しいか」なんてのは決着が未だについてないのだ。

その証拠になっているのがさっきの教科書。

今年出版の第一学習社の1年生の教科書だけど、

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両方書いてあって、いかにも「両方とも正しいですよ」みたいな顔をしている。

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こっちはsとかtとか。どっちでもいいだろう。

 

「正しさ」の権化みたいな教科書でさえ両方を掲載しているのだから、カイ派かエックス派かなんて言い争いはもはや不毛ではないか。

ましてや理由も説明せず「お前らのxはエックスじゃなくてカイだ間違ってる」なんて言い切ってしまうのは不遜にも程がある……と、思う。

なぜなら、両方にメリット・デメリットがあるからだ。

 

書き方変えるメリット・デメリット

さて、今のところ正誤の問題は抜きにして、先生の言う通りに改宗?した場合どんなことがあるか考えてみよう。本当は先生が説明すべきだった。

表にまとめてみた。

 

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メリット

区別ができるというのは大きい。私はずっとカイ派だったので、モノホンのカイが登場したときはかなり面食らった。カイとエックスが同席しちゃうような場合、どう書き分けたらいいのかわからなくなる。まあそんな状況がないけど

 

そもそも高校数学の範囲ではカイを使わないこともあり、微妙。

大学に入ってからでもいいんじゃないかなとも思う。

 

次。

ベクトル表記というのはこれのこと。

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(https://physnotes.jp/foundations/b_al/)

高校まででは、例えばABというベクトルがあると、ABの上に右矢印をつけて、

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のようにあらわすのだが、大学からはこういう風には書かない。単文字の左側とかに線を引いて、変な表し方をする。慣れるとめっちゃ楽。

このとき、エックス派の人は割と簡単にエックスをベクトル表記できるが、カイはやりにくい(というか見づらい)。エックスのベクトル表記は結構頻繁にやるので困った。

エックス派が羨ましくなる。

……だが当然、これも高校ではやらないし習わないので微妙か。

 

次、先生に嫌われずに済む。これは後述。

 

デメリット

当然、書き方を変えるというのはそれまでに体に染みついたクセを矯正するということだ。皆さんは漢字の書き順の間違いを知っても、それから一定期間はなかなか直らなかったという経験がないだろうか。それは、今まで書いてきた書き順が頭に染みついてしまっているからだ。

それと同様、カイ派からエックス派への改宗は多大なる気持ち悪さと時間を必要にする。

 

答えだけエックス派で書けばよくね?という意見も出そうだが、高校数学は中学と違い、「答えを導出する過程」をより重視する。テストでは当然答えの導出過程(途中式)も書くわけで、間違っては直しを繰り返すことで時間を浪費してしまう。

じゃあ100回書いて染み込ませろと言われればそれまでだが、そこまでして矯正するメリットがあるようには、私は感じられない。

 

次。紛らわしい。

実はカイ派にはエックス派が知らないメリットがある。

確かにカイ派は本当のχを目にしたとき無力になるが、エックスは一目見たとき )( との区別をなかなか付けられない。

エックス派とて紛らわしさの呪縛からは逃れられないのだ。

しかもχが高校数学でほとんど使われない一方で、 )(  という「かっこ・かっこ閉じ」形式は頻繁に登場する。(x + 2 )( 3x + 4)のように。これを(x + 2x 3x + 4)と誤解して間違えることなんて結構ありそうだが、大丈夫なのだろうか。

 

読み間違いで答えを間違えるなんて一番あっちゃいけないことだ。

 

ノートの見栄えが悪くなる問題。

今までノートに書いてきたxを全てカイからエックスに書き換えるのは労力がかかるが、かといって書き換えないと見栄えが悪い。復習のさい何となくモヤモヤしたものを感じそうではある。

 

カイかエックスかは賛否両論

というように、それぞれにデメリットとメリットがあり、書き方の統一もできていないから、しょうがなく教科書も両方載せている。

このどちらかについて、「正しい」とか「間違っている」を決めることが不可能なのはおわかりいただけただろう。そんなのを決める時点で不毛、もはや数学の問題でさえない。

 

ところがこの先生がさらにまずかったのは、そういう背景とかメリットさえも説明せず、「こっちは正しくてこっちは間違ってる」と独善的に決めつけてしまったことだ。

生徒にしてみればただ変な書き方を押し付けられただけだし、それで従おうという気にもならないと思う(私ならならない)。

 

せめて両方の良さ悪さを説明したうえで、「俺はこっちのほうが望ましいと思うけど、別にテストで書いてもバツにはならないよ」と言うぐらいの寛容さはあってもよかったんじゃないか。

 

「丸付けしないぞ」という脅し

そこまで言うのなら生徒だって「あえてエックスじゃなくてカイを書き続ける」という反抗ができるだろうとお考えの皆さん。甘い。

 

この先生は私の予測をはるかに超えていた。

 

「それで、先生、こんなことを言いだしたんです」

「何?」

「『今、お前らにこうやって教えたからな。今度からは、俺の教えたエックスじゃなくてカイを書いてきた生徒のプリントは、俺は採点しないし、提出したことにもしない。数学的に正しいxを書いてこい』って」

はぁ~~~~!?!!?!??!!?

 

「もう呆れました。数学ってやっぱりつまらないんですね」

 

そこまでして自分の正しさを示したいか先公さんよ。

そもそも受験でどっちを書いても点数に何の影響もないものを、片方だけを間違っていると決めつけて「丸付けしないぞ」と脅す姿勢に、どんな正当性がある?

これはもはや数学ではない。

 

「……で、結局その先生はなんでそこまでしてエックスに拘るの?」

「自分が高校生のとき、そう教わったから、ってだけです。先生~、もうあの人の授業受けたくないです」

 

……もう何も言えねえ。

 

しかし、生徒にとってはどんなに理不尽なルールだろうと、通知表という制度で首根っこ掴まれているのだから、従わないわけにはいかない。

彼が推薦を受けるならなおさらだ。

しかもその数学の先生は彼の担任ときた。担任に嫌われていいことがあるはずがないから、ますます従わないわけにはいかなくなる。

 

 

一応、高校の定期試験は特定の生徒のエコヒイキを防ぐため、複数人の教員が同じ部屋に集まり、誰かが丸付けした答案を他の先生がチェックすることで、誤採点を防いでいる。

この高校が相当腐ってでもいない限り、エックスをカイと書いてたせいでバツとかサンカクになったのは他の先生が訂正するだろう。それに賭けるしかない。

 

数学は些末にこだわる学問ではない

以前、「掛け算の順番はどっちが正しいか」というのが問題になったが、向きが同じ問題なような気がする。いや、より些末というべきか。

かけ算の順序問題 - Wikipedia

 

数式と日本語の語順とを結びつけるというのは一見合理的で、「答えが同じでも式自体のもつ意味は違うんですよ。そういう見方は皮相的なんですよ」と言われれば納得してしまいそうな危うさがあるが、それだと別言語に翻訳したとき数式の順番が逆になりうることに対し、答えられない。

 

掛け算という演算自体は世界共通なのに、使うことばによって数式の「正しい」順序が変わるなんて、それこそナンセンスだと思う。

 

数学というのは表面的な違いを剥ぎ取って本質的に同じところのものを抽象化して表していく学問である。

グー・チョキ・パーと、キツネ・猟師・庄屋という表象的なことばを剥ぎ取り、その内部に共通する三すくみ構造と演算の対応関係を見出す……というようなものだ。

 

3×5も5×3も、「日本語の語順という表面的な違い」を剥ぎ取ってしまえば同じなのだ。難しい例えを出すなら、三角関数と指数関数が複素数という共通の本質を持つのに対し、「三角関数から導出したコレは駄目だけど、指数関数から導出すればOK」みたいな無意味さがある。

 

いや、無意味とまでは断言しないが、答えが等しい3×5がよくて5×3が駄目な理由を生徒に理解させるだけの合理的な理由と技量とがないばかりに、ただ単にその正しさを押し付けてしまっているだけ、なような気がする。これでは本末転倒だ。(つまりそれらがあれば別によいが)

 

エックスかカイか問題も同じだ。

結局それらの文字は、「未知数」という概念を表出させる記号そのものであり、本当ならエックスでもワイでもゼットでもアルファでもなんでもよいはずだ。それをたまたま「x」という文字に代表させているだけであって。

 

だから本来エックスに見えるかカイに見えるかというのは数学の本質(正しさ)なんかでは決してない。それは表面の問題であり、実用上の問題であり、単なる価値観・感性の問題だ。

極論を言うと、エックスと書いたつもりがカイであろうと、それは「カイ」という名前と形をした、「未知数という概念」に対応する文字なのだから、その二つが同居でもしない限り全く問題はないと思う。

よって、先生の言う「お前らの書くxはカイだから数学的に正しくない」ということばはブーメランだ。

 

本質に何ら当たらないばかりか、今回のように「数学ってのはそういうドーデモいいことを気にするつまらん学問なんだな」と思う生徒が増えることもありうる。

少なくともカイ派の生徒は先生の意見に対して理不尽や反感の念を覚えたのは間違いないだろうし、高校に入ってきたばかりの元・中学生に対する数学の洗礼の態度としては不適切だと思う。 

 

教える側がこんなので、生徒は数学が好きになるのか……?

私は好きにならないと思うがどうだろうか。

 

はぁ、疲れた。今度また進展があったら記事にします。なくても記事にするかも。

メルカリ現金・領収書・ICカード・特殊景品・オブジェ問題まとめ

www.potechitanguruguru.com

この記事を読んで書こうと思い立った。

 

最近何かと問題になっている、メルカリの出品問題。合法とは言えどまさに「法律にも穴はあるんだよなゴクリ」的すり抜けで、数多くの人間をうならせたのは記憶に新しい。

 

事態もそろそろ落ち着いてきた(大嘘)のでここらで一旦情報を整理し、私個人としての展望の予想をしてみようと思う。当たったら嬉しいな。

クレカの現金化

発端となったのはこのツイート。

 

「クレカの現金化」とは簡単に言えば次のようになる。

クレジットカードには二つの機能がある。

一つ目に、商品やサービスのお支払を現金でしない代わりに、後から払う「ショッピング」の機能。こっちで使う人が多いが。

二つ目に、お金を借りるための「キャッシング」の機能。

 

そして、それぞれ限度額が決まっている。これは当然、カード利用者がいくらでも使った挙句に自己破産……と、カード会社が損をしないようにするためのものであり、利用者が使い過ぎないようにするためのものでもある。(そのため学生は利用枠が少なかったりする)

 

しかしお金に困っている人は悠長なことを言っていられない。

 

キャッシング……つまりお金を借りる枠を最大限に利用してもまだ借金が返せないから、「クレカの現金化」……もとい「クレカのショッピング枠の現金化」という手段に走ることがある。本来なら買い物に使うはずの枠によって、現金を手に入れるのだ。

 

「ショッピング枠を使い、換金する」のだが、この際よく使われるのが「現金そのもの」だったり、「ボロっちい商品」だったりする。

どういうことかというと、こう決めておくのだ。

 

悪い人「お金にお困りでしょう。今なら5万5千円でこの5万円を差し上げます」

(悪い人は(手数料などを無視すれば)この差額5千円が儲けとして手元に入る)

借金マン「ほ、ほしい!下さい!クレカで払います!」

(この際、5万円を得るために5万5千円分の「ショッピング枠」を使う)

 

なぜこんなことをするかというと、端的に言えば「借金で首が回らないから」である。

来月までに10万額面通り返さなければならないのに、手元に現金がない。あと5万足りない。なんとしても5万円を捻出したいが、クレカのキャッシング枠は全部埋まっててもはや借りられない。銀行も融資してくれない。

 

……そうだ、悪い人さんから5万5千円で5万円を買えばいいのか!

 

しかし当然、この方法だと借金は雪ダルマ式に増え上がっていくことになる。再来月には5万円より多い5万5千円をどこからか払わねばならず、来月は5万5千円を6万円で買う……とすると、いつまで経っても借金は返済し終わらないのだ。

結局自己破産をいくらか遅くするだけであり、根本的な解決にはなっていない。

 

だがさっきも言ったように、彼らはそんな悠長なことを言っていられない。彼らによっては再来月の借金のことより、目の前のお金をどう返済するかのほうが大事なのだ。

当然ながら貧困層にこの問題を抱える人が多く、メルカリで現金を出品する奴らは貧困層にターゲットを絞っている。だから「貧困ビジネス」だ。

 

しかしクレカ会社はこんなことをされると困るから、だいたい規約に「ショッピング枠で現金を手に入れるのはやめてね」と言っている。違反するとカード利用が禁止されてしまう。違法ではないが、限りなくクロに近い。

 

 

当然のように今回の事例も2017年4月22日に規制されてしまった。

「現行貨幣の取引」を禁止したのだ。

以前は「記念硬貨とか取引したい」という意見を尊重し、現金のやり取りも可能だったのだが、さすがにこんな使い方をされてはたまらない、ということだろうか。

メルカリは「想定外の使い方だった」と述べてはいるが、いくらなんでも前もって対策できたのではないか。

 

ICカード問題

そうすると、その規制を華麗にすり抜けるマンが現れた。ICカード現金化問題である。

ICカード乗車券……SuicaやらPASMOやらの、改札を通るときにピッとするだけで勝手にお金が引き落とされる便利なアレが、メルカリに出品された。

Mercari suica

 

そして、このICカードには最初から1万円がチャージされている。

どうしてこんなことをするのか。理由は簡単だ。

「表向きICカードを出品しているけど、利用者の手にカードを渡し、自分で現金に換えてもらう」ためだ。チャージされている1万円を借金返済に充ててもらおうというのである。当然このICカードの取引額は1万円より多く、先ほどの事例、5万円を5万5千円でクレカで買うのと同じ。

つまり何だ、結局クレカによる現金購入とやってることは変わらない。

 

なぜこんなめんどい形にしたかといえばそりゃあ当然、「メルカリ側が現行貨幣の取引を禁止したから」だ。貨幣じゃないならチャージしとけばいい!という逆転の発想で、見事すり抜けた。

 

これ、チャージされてなくても文句が言えないというか、詐欺の温床になっている気もするが。怖いなあ。

 

しかしこれもまた規制されてしまった。

 

同じくして出品されていたのが、パチンコの特殊景品だ。数は少ないながら、なかなかのアイデアだと思う。

 

特殊景品問題

日本のパチンコはやや特殊で、パチンコの店内で換金すると賭博罪に当たり捕まってしまうため、店の外に換金所(景品交換所)なるものを設け、そこでお金に換える……ということをしている。

 

一応パチンコ店と景品交換所は「お互いに癒着関係がない」というタテマエではあるが、パチンコ屋のすぐ隣に交換所があったりするから、まああくまで法律の穴をつくためのものなのだろう。

 

このとき、店の中で渡される景品が特殊景品だ。

「特殊景品」の画像検索結果

当然そのまま使ってもいいのだが、これを交換所に持っていくことで、現金に換えてくれる。

これがパチンコでの儲けとなる。

まあカジノで使うチップみたいなもんだと思えばいい。

 

 

メルカリで特殊景品が出品されていたとはどういうことか。

メルカリで買った特殊景品を交換所に持っていくことで、お金に換えてしまおう!というのである。

何度も言うが、結局クレカによる現金落札とやってることは変わらない。

しかも、「レシートがないと換金できない」店もあるらしいから、結局無知につけ込んだビジネスなのも変わらない。

 

(個人的には、パチンコの三店方式じたいがもはやただの法の抜け道にしかなっていないので、これも一気にやっつけちゃってほしいと思うが)

 

当然これもメルカリによって規制された。

 

魚のオブジェ問題

そうするともはや天才が考えたとしか言えない商品が出品されてしまった。

 

 値段は59000円だが、1万円をただ魚の形に折っただけのもの。折り方が地味に上手い。

これで本当に1万円しか来なくても(ガラクタ同然のマジモノの魚のオブジェが来ても)文句は言えない。この発想をした人間の頭の中を覗いてみたい。

 

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(お札 折り紙 で検索)

 

もしかしたら流行に乗っただけの人なのかもしれないが、これを真に受けて買ってしまう人間もいないとは限らず、手法はかなり悪質だ。

折ったとはいえ現行貨幣なので当然メルカリの規約違反になるだろう。

 

領収書問題

クレカの現金化とは少し違う問題だが、領収書もメルカリで販売されていた。

「メルカリ 領収書」の画像検索結果

 

まあすごく簡単に言えば、あなたが仮にある商品を1000万円で仕入れて1500万で売ったとしよう。本来ならば稼いだ1500万全てに対して税がかかってしまうはずだけど、それを防ぐのが「経費」。

このとき「商品を売るためにどーしても必要なお金」のことを経費という。

まず仕入れ値の1000万円は経費。商品がないと売れないからね。

他にも、電話代とか輸送費とか出張費とかその他もろもろ、売るために使ったお金を経費とすることができる。もちろん何でも経費にできるわけではない。

ちなみに、経費にすることを「経費で落とす」という。

 

売上から経費を引いたものだけに税がかかる。

つまり、次の図のようになる。

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本来だと1500万全部に税がかかるはずだけど、商品を売るためにどうしても必要なお金を「経費」とすることで、1500万からいろいろ引いて残った分にしか税がかからなくなる。

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ということは、本来使っていないお金を「経費」として出すことで、自分が払うはずだった税を逃れることもまた可能になってしまうわけだが、これは当然法律で禁止されている。まあいわば「脱税行為」になる。

 

だから、領収書を買って出すことで、脱税ができてしまうのではないか、ということだ。現金化とは違うが、どうにかして金を稼ぎたい・金を得たい人間の闇の心理が表れている面では共通だろう。

 

これも規制されている。

購入は当然として、出品も所得税法違反の幇助でたぶん税務署が来るだろう。 

※欄で指摘がありましたが、売ること自体は一応「罪にはならない」みたいです。

ただ目的はほとんど真っ黒で、対策されてもおかしくはない……と思います。

キャッシュバック問題

だが彼らはまだまだ諦めない。現金の形で直接取引するのが駄目ならと、今度はキャッシュバックキャンペーンを始めてしまった。

メルカリ 現金取引

キャッシュバックというのは、何かを購入したり、サービスに入ったりすると、その時の費用の一部が現金で戻ってくる、というものだ。cash(現金)がbackする(戻る)からこう呼ばれていて、れっきとした外来語。

 

だがこれを真に受けて「なるほど効果のあるパワーストーンなのだな」と思ってはいけない。ただパワーストーンを売るだけなら、1万円キャッシュバックなんて形にせず、最初から3500円で売れば済む話なのだから。

要するに、「パワーストーンの販売」は建前、表向きの理由で、実際はクレカの現金化である。まーた出た。

 

たぶん規制されはするのだろうが、これらの事例をみてわかるように、「天才たちとメルカリのいたちごっこ」になってしまっていて、規制が根本的な解決にはつながっていない。

これから起こりそうなことを予測してみようと思う。

 

起こり得る問題

「宝くじ当選券」によるクレカ現金化

宝くじの当選券を売り場に持っていくことで、現金化するというもの。

例えば1万円当選くじをメルカリに1万2000円で出品し、差額の2000円を儲けとして得る。

しかしこれは当選金付証票法で禁止されているから、それを知らない人はやるだろうと思う。(やる前にちゃんと調べるのだろうけど)

第六条  当せん金付証票の作成、売りさばきその他発売及び当せん金品の支払又は交付(以下「当せん金付証票の発売等」という。)については、都道府県知事又は特定市の市長は、当せん金付証票の発売等の事務のうち都道府県又は特定市が自ら行うものを除き、銀行その他政令で定める金融機関(以下「銀行等」という。)の申請により、その事務をこれに委託して取り扱わせることができる。

7  何人も、当せん金付証票を転売してはならない。

 

第十八条  次の各号のいずれかに該当する者は、これを十年以下の懲役又は、百万円以下の罰金に処する。
一  第六条第七項の規定に違反し、当せん金付証票を転売した者
二  第十一条第一項の規定に違反し、当せん金品を支払い、若しくは交付し、又は受領した者

 

 

やろうと思ってた人はやめましょう。

 

場所を移した現金化

ヤフオクでも25日付けで電子マネーや金券の取引を「不適切だと判断した場合」削除すると言っているが、おそらくこの類の取引はネットからなくならないだろう。

きっとメルカリで全面禁止にされれば、その他のオークションサイトで取引が始まるに違いない。(もう始まってるかも)

 

なぜなら、いつの世にも金に困る人たちと、その人たちを甘い言葉で誘って金をふんだくる人たちが尽きないからだ。

前者はどんなことをしてでも眼前の金を得たい、後者はどんなことをしてでも金を取りたい。もともとそのために手段を選ばない両者が取引していたのだから、これは「メルカリ利用者層全体が頭悪いから」起こったのではないと思う。(本当に頭悪いかどうかはこの際関係ない)

むしろ、メルカリが対策してなかったからこそ、目を付けられてしまったのだと考える方が自然だ。そして、このような闇取引がメルカリによって皮肉にも露見してしまった。だから今ようやく騒ぎ立てられている。

 

しかも、クレカの現金化自体はそんなに物珍しい現象ではなかった。元々の商売原理は10年前からあったそうだ。

店の広告などに書いてあるのをたまに見るぐらいには有名で、いわゆる「金にあくどい若者」と「無知な人」モデルというよりは、10年前にクレカの現金化が問題になっていた世代の人たちがその手法をメルカリに応用した、と考えた方がいいかも。

 

メルカリでないから大丈夫なんて保証はどこにもなく、他のサイトでも常に目を見張らす必要があるのは間違いない。

 

不良品を売りつけたことにし、返金制度を使う

簡単のため手数料は考慮しないが。

商品Aを1万2000円で出品する。注意欄にこう書いておく。

「この商品は不良品ですので、お手元に届きましたら返金いたします」と。

そうして1万円を簡易書留で返金すれば、1万円を1万2000円で購入したことになる。

まあ「クレカの現金化」だ。またかよ。

 

問題はメルカリ運営にこれを悟られないようにすること(規約上、返金はメルカリ運営を通じて行う必要があり、口座を教え合う行為は禁止されている)だけど、面倒なので考えない。まあ天才だからうまくやるんじゃないかな。

……というかここに書いちゃったら幇助になるしやめといたほうがいいか。

 

 

素人が容易く介入できる闇ビジネス

いろんな記事を見てもあまり書かれていないが、この件の本当の問題点は「世の中にはこんなに切羽詰まった人がいる」ということではなく、むしろ「今まで裏でやられてきた商売に、素人が簡単に手出しできるようになった」事だと思う。

 

ほんの少しのアイデアと覚悟さえあれば、借金で首が5度も回らない貧困者たちを相手取って、誰しもががめついビジネスを始めることができる、と判明したのだ。

そして先ほども言ったように、これはメルカリだけの問題ではないし、これらが規制されたから万事解決!って話でもない。

 

だからこそ、いたちごっこにならない根本的な対策が必要になるのだが、なかなかうまくいっていない。

私も思いつかない。あまり規制しすぎると窮屈になって、利用者たちが逃げてしまう恐れもあるし、規制を続けたとて手法がややこしくなり、結局取り締まれなくなる可能性だってある。

「根本的な対策を」とことばで叩くのは自由だし楽だけど、そんな手法がないのが実情だ。

 

きっとこれからもクレカの現金化という手法は品と形を変えて生き残っていくだろうし、ネットオークション業界でいえば、法律を整備して、警察が介入でもしない限り、その芽は摘み取られないだろう。

それまでには長い時間を要するから、企業がいたちごっこで対策するしかないのかもしれないが。

 

手助けなんかではない

クレカ現金化のビジネスを「手助け」と呼ぶ人もたまにいるが、むしろ真逆だ。

やり口は自分が儲けを得るために相手の借金を増やしているにすぎず、借金者が地獄に行くのを後に延ばす代わりに、より酷い地獄に行くことを「手助け」しているようにしか思えない。

到底こんな方法が許されてはならないだろう。

 

それならまだ離婚届を300円で売ったほうが、(多少がめつさはあるが)誰も困らないというものだ。

というわけで、皆さんの認識を少し整理できたなら幸せである。

 

さーて、違反している商品の通報に戻りますか。

 

 

追記:「金」が取引されていた。

メルカリ 金正恩

「勝手にミサイル打ちます。」

読み手にすれば、書き手の「意思」なんてクソクラエな訳で。

この間、ブクマにて私の言葉足らずが原因で相手を不快にさせてしまったので、備忘録代わりにこれを記すことにする。肝心の記事は……相手の方に申し訳ないので紹介しないが、私のブクマ履歴をたどってもらえればすぐわかると思う。

はてなブックマーク - zetakun のブックマーク

 

これは私個人としての立場表明であるとともに、「言論を他の誰かに公表するとき、どういう心持ちで臨めばいいのか」という一般論にもなっているので、ブログとかを普段書いていない方にも応用が利くと思う。

 

それでは、当たり前のところから攻めていくよ。

 

ことばの原理

人間はふつう、ことばによってコミュニケーションを行う。これは前提中の前提だけど、ここから「隠れた事実」めいたものが出現する。何かというと、ことばについての属性が示す、とある二つの真実(のようなもの)だ。

そのためには、ことばがどうやって伝わるのか、を考えねばなるまい。

 

我々はなぜことばを使うのか?

もちろん「自分の考えを他人に伝えるため」だ。

 

なぜそんな回りくどい方法を使うのだろうか?というのは尋ねずともわかるとは思うけど、当然「自分の頭の中のことは、他人には直接伝えられないから」だ。

これを図にしてみると次のようになる。

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こっちは理想の世界。私の脳に浮かんできた想いが、そのままあなたの脳に伝わる。

何の違いもなく、考えていることがそのまま伝えられるわけだから、誤解なども生じない。

だがこんな都合の良い世界に我々は生きていない。現実はこっち。

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そのまま伝わらない。

だから幾分か回りくどい方法をとらねばなるまい。そのために用いるのが「ことば」だ。

 

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私の脳に浮かんできた思いをことばに仕立て上げ、口で発音する。

その音はあなたの耳に届き、「腹/減った/なぁ」というように恐らく情報としての単位に分解され、再構成されてあなたの脳に入るとき、「コイツ腹減ってるんだな」という情報が手に入る。

 

こんな当たり前のことを!と憤るのは全部読んでからにしてほしい。こんな当たり前のことなのに、変に当たり散らす方もいらっしゃるからだ。

 

さあ、道具はそろった。あとはことばを使うことに関する「隠れた事実」とやらを明らかにしてみよう。

 

誤解はいかにして起こるか

人間が作り出した最古で最強のコミュニケーションツールが「ことば」だが、当然弱点が付きまとう。情報がどうやって伝わるかを考えれば答えは自明だ。

 

まず、私の脳に浮かんだ想いは、私の口で一度ことばになる。これは良いとしよう。問題はその後だ。

あなたの脳にこの情報が入っていくまでに、何が行われるだろうか?

 

耳にことばが入る。これが自分の知る言語なら、ちゃんと処理される。

ことばから相手の考えを再構成、そうして入っていった。

そう、再構成だ。

 

相手の考えと、再構成された「(自分が推し量った)相手の考え」が同じであるなんて保証は、どこにもない。

もっと簡単に言おう、「こいつきっとこう考えてるんだろうな~」という推測が当たってるかなんて、誰にも保証しようがない。

 

なぜなら、人間の使うことば(自然言語と言い換えてもよい)というのは基本的に開かれており、意味が何通りも生まれてきてしまうからだ。これは人間の生物的な記憶力、分析力の限界に起因するものだから、改善しようがない。

 

まあもっと簡単に言えば、人間が使う全てのことばに対し、その一つ一つ別々の文字、記号を使った言語体系を作ることはできないことはないが、そんなの記憶力が持たないだろう、という話だ。

 

単語一つに関しても、文法に関しても、または文章全体に関しても同じことがいえるが、基本的に人間は『多義的な』ことばを操る生き物なので、相手から受けたことばから意見を再構成する時点で、まず間違いなくどこかに食い違いが起こっていると思ってもらってよいだろう。それはたびたび同じ発音に由来したり、使い分けに由来したりする。

 

例えば、「Aくんの非難にBくんが非難で返した?うーん、そりゃあまずいね」という文章があったとする。この話し手は結局、誰に対して「まずい」と言ってるのだろう。

私はBくんだと思うが、Aくんの人もいるし、もしかしたら話し手自身かもしれない(たとえばAくんとBくんの喧嘩の発端を、彼が作ってしまったとか)。

この場合、どんなに正確に答えを導くコンピュータがあっても、解は一意的に決定されない。なぜならことばそのものが『多義的』だからだ。

 

店員がこけたせいでジュースを顔にぶちまけられた女性が「どうも!」という。

これは当然感謝の意からなることばではない。にも関わらず女性が怒ってることを理解できるのは、文脈があるからに他ならない。この場合、「感謝の意を示す際に使う」という本来の意味に、文脈が先行し、皮肉であることが理解されうる。

ことばの多義性を示す一例である。

だが、この皮肉が通用しない(結果誤解してしまう)人も、おそらく世の中にはいるだろうし、普段から文脈について意識することはない。

 

 

これらについて、普段意識することはほとんどない。意識してたら気が狂いそうだからなのか、「自分の考えがちゃんと相手に伝わってるか」に日常で気をかけてみたりはしない。

 

ここから二つの事実が導かれる。

 

1、どんなことばにでも、相手に再構成される段階で、誤解される可能性がある。

2、誤解される可能性について、普段はほとんど意識しない。

 

そしてこの2つの事実じたい、また日常では全く考慮されない。それをいいことに、自分の言いたいことだけを押し付け、相手に誤解を生ませてしまっている例などもある。

 

そのことばは誰のものか

ここで、読み物に焦点を当ててみよう。読み物とてことばであり、声か文字かの違いしかないはずだ。よって、当然先ほどの2つの事実が効いてくる。

だから誤解が0%になることは絶対にない。(※自然言語について)

 

これはかなり悲しいが認めるほかあるまい。人間という動物の生物学的限界に起因することばの多義性などが誤解を引き起こすのだから、どうしようもない。

 

読み物に関し、どんなに努力しても誤解がなくならないのはなぜか。

 

それは、自分が書いた意見は、文字になって公表された時点で自分だけのものではなくなるからだ。

ことばになった自分の意見を他人が読み、再構成する。その過程で誤解は生まれてしまう。モノの贈与とは違い、自分の意見は他人に渡してもなくならないから「共有」だ。自分の手元を完全に離れることはないにしろ、独占はできまい。

誤解を生みたくないなら、いつまで経っても文章を公表できないことになる。 

 

もっと発展させていうならば、「自分の文章を他人がどう読もうと、それを阻害することはできない」はずだ。

 

あるヒネクレ者がこの文章を読んで、「なんだ、ブロガーが最高って言いたいのかよ、カス」ということを考え、ブコメに書いたとしても、私はそれを邪魔する権利がない。

自分の意見を文字としてここに書き込んだ時点で、皆さんがそれを再構成(解釈)するのは明白な事実で、そこにことばの多義性という不可避的な要因が絡み、結果として誤解が生まれてしまっても、もはや誰のせいでもないのだ。(強いて言うなら書き手か)

だから阻害の権利がない。

 

それを身も蓋もない言い方にすると、タイトル通りになる。

書き手が「こう考えてほしい!!」と望み、そう仕向けるように文章を書いたとしても、自分の手を一度離れた文章は他人に如何様にでも解釈されてしまう。

 

これをよく覚えておいてほしい。

 

誤解されぬ努力を

何か批判をされたとき、「揚げ足を取られた><」と感じる人は必ず出てくるし、そういうコメント全てを「悪口コメント」と呼ぶ人もいるが、それはおかしいと言わざるを得ない。(一部本当に揚げ足取ってるようなのもあるが……)

 

自分の書いた文章でいかに誤解が起きやすいかを本当にわかっていれば、「批判は全て悪口粛清だ粛清」というドコゾの北の国のブタさんのような態度をとることなんてできないはずだ。

誤解のない文章を書くにはどうしたらよいか?という真摯な態度が生まれこそすれ、「批判する奴は全員根性がひん曲がってる」なる決めつけが出てくるはずはない……と思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。

 

 

私は決して「批判を100%全て受け止めろ」と言っているのではない。批判の中には「これだけは誤解されたくない、譲れない」という部分があるに違いない。そういう時は追記でもなんでもして、誤解を解かねばなるまい。

私はそうしているつもりだ。

そういう姿勢がいずれ書き手への信頼性、個性に繋がっていくと信じている。

 

というわけで今日のまとめ。

1、誤解は書き手の意思に関わらず発生する。

2、そのことについて普段は意識しない。

この二つの事実が原理のように成り立つ。情報を発信する人間は、できれば情報の受け手にその責を擦り付けるのではなく、二つを意識して「誤解をより少なくするようにはどうしたらよいか」という姿勢を模索すると良いと思った。

時には直接言及し「それは誤解です!」と伝えるのも手だろう。

その真剣な態度がいずれ読み手にも伝わっていくに違いない。

 

 

追記:途中、理想のコミュニケーションの話をしたが、そもそも考えてることがそのまま伝わるのであれば、ことばというものは必要でなくなるはずだ。「腹減ったなぁ」「腹減ってるのか」という「ことば」も彼らにとっては必要ではない(だから本来は脳内に浮かんだイメージだけで会話してる)わけだが、そこは例え話として、ご理解いただきたい。

【ネットの怖い話】ユーザー名を電話番号にしてたら変な電話がきた話

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私はアホでした。

 

アホでした。アホでしたので、オンラインゲームのハンドルネームを電話番号にしてました。市外局番は含みません。

自宅の固定電話の番号です。

その結果家に無言電話がかかってきた、というすべらない話。ゾッとする話か。

 

実は今もアホです。

 

 

オンラインゲームとの出会い

今日は自虐風なので敬体でいきます

 

私がオンラインゲームと出会ったのは小学3年のころでした。当時はパソコンなんてのもデスクトップ型の分厚いやつしか家になく、パソコン備え付けのゲームに勤しんだりゲームの動画をYoutubeで漁ったりしてました。父親のだったんですが、後ろからパスワードを覗き見て勝手に入るぐらいの知恵はありました。彼が仕事に行っている間にこっそりやってました。

 

ですがそれだけの娯楽では足りなくなるのが子どもというもの。私とて例外ではなく、Yahooきっず(懐かしい響き)ではなく普通のYahooで検索をかけ、さらなる刺激とストレス発散の場を求め、たどり着いたのがカタカナ5文字のゲームサイト。出すとディスるみたいになるんで、名前は伏せます。

 

たしか「ゲーム 無料」で調べた結果ここが出てきた……ぐらいの理由だったと思いますが、なんとかして親のメルアドを探し当て、適当に家の電話番号を打ち込んだらアカウントが作れちゃったからさあ大変。(電話番号は市外局番なしです。まだマシだったのかな)

 

で、そのまま、とあるオンラインゲームを始めました。

 

 

こっちも、そんなに深い理由があったわけでもなく、ただトップ画面に「オススメ」として表示されていたからにすぎません。が、「カンタン操作!」みたいな文面が齢9の少年のアホな精神をくすぐったのは覚えてます。

 

そうして魅惑の世界に足を踏み入れました。「〇〇〇123」という名前をキャラクターにつけてゲームスタート。こっちは本名とも住所とも関係なかった。

 

アカウント名(ユーザー名)とゲームでの主人公のキャラ名は別でした。今思えばこれが不幸中の幸いだったのかなと。

 

友人のN君

そのうち私にも友人ができ始めました。怖いので一応伏せときます。N君です。

初心者専用のルームでやってたんですが、私がログインするたびにそこにいて、すぐに仲良くなったのを覚えてます。当時は何も思いませんでしたが、不自然極まりないですよね……。

学校はどうか~?とか〇〇というモンスターがどうだ~とか、まあ他愛もない会話です。小学生どうしだからそんなもんなんでしょうかね。

 

すぐに打ち解けてフレンド登録、毎日数時間チャットに入り浸り、いろんな話をするという感じでした。

 

ある日彼が唐突にこんなことを聞いてきました。

「〇〇〇123は女の子?」と。

私はキャラクターを作る時、髪の短い子を選んでましたが、なんとそれは男じゃなくて女だったようです。道理で男専用兜が装備できなかったのかと、その時納得しました。

が、なんとなく知られるのも嫌なので、「どっちだろうねー」とごまかしました。

そこでちゃんと教えてれば……!

 

N君は本当の小学生か

当たり前ですが、フレンドとはいえど、名前とか住所とか電話番号などは自分から明かさなければ絶対にわからないようになってました。一定の安全性はあったわけです。

そう、自分から明かさなければ。

 

つまり逆に言えば、実際には小学生ではないのに、小学生を偽ってアカウントを作ることなんてほんとに容易いんですよ。そこらへんは完全に使用者のモラルにゆだねられてました。

というか本当に小学生かどうかなんて運営側じゃ確認取れないので、ゆだねるしかないですよね。

 

しかしまだ疑うなんてことを知らない小学生が、「今喋ってるこの人は本当に小学生か」なんて感じるはずもなく、私は当時、N君は本気で小学生だと思ってました。仲の良い、気の合う小学生の男の子だと。

 

その反面私は電話番号をアカウント名で明かしてました。

この非対称性が私に悲劇を招くことになります。

 

アレは電話番号なの?

ゲームの中のキャラクターのアカウントと自分のユーザーページは紐づけされてますから、その人のアカウントのページまでひとっとびすることができます。

 

そうすると何が起こるか。N君には私のユーザー名(電話番号)がばれてるわけですから、そりゃあもう「ココに電話して!!」って言ってるようなもん。

 

彼はとうとう禁断の質問を私にしてきました。

「アカウント名あるじゃん。

アレって、家の電話番号?」

 

私はなぜか怖くなって、普通に「好きな数字」とか言えばいいのに、(まあそれでも苦しめの言い訳か)黙って部屋を出てしまいました。

もうね、アホかと。黙って出てったらもう「ハイ電話番号です」って言ってるようなもんじゃんか。何か言えよ。

 

で、その後、もう彼に会うのが怖くて、「電話が来るかも!」と思うとログインもできませんでした。そういうところはしっかりしてたというか心配性というかただのアホでしたね。

 

無言電話の嵐

忘れもしない8月23日の夕方。泳ぎ疲れて帰ってくると、母親がふとこんなことを口にしました。

『たくさん電話がかかってくるんだけど』と。

 

私は嫌に高鳴る心臓を必死で抑えながら、どういうことか聞いてみました。

夕方、連続で5回ぐらいだったそうで、さすがに母親も怖がってました。最初の2回は出ましたが、残りはずっと電話には出なかったらしいですね。そりゃそうだ。

表示には「コウシュウデンワ」と書いてあったので、おそらく彼で間違いないと思います。

 

でも、実は無言電話だけじゃないんですよ。1回目の最初、彼こう言ったみたいで、そこからずっと黙ってたらしいです。

 

「女?女?」って。

その時の肌の粟立ち方はおそらく人生でもトップレベルでした。

未だに覚えてます。

 

母親は何も答えなかったそうです。まあ意味不明だから当然か。

私には意味がわかりましたが……。

 

N君という名前で活動してた「ソイツ」は、私が書いていた市外局番なしの電話番号に、考えられる市外局番を手当たり次第に代入して電話をしてきたということになります。

 

http://www.jpnumber.com/outnumber.html

によれば、日本の市外局番は391個

私の公開していた電話番号の桁数である程度察しがつくとはいっても、この数に近い電話を次々にしているだけでもどれだけの時間がかかるか。

 

私は逃げるようにキャラを削除し、二度と出入りしませんでした。

 

次に怖かったのは住所特定です。もし市外局番が絞り込めるならば、少なくとも市町レベルでは住所がわかっていることを意味するわけで、「そのうち本当に気持ち悪い奴がウチに入ってきて、ぶっ刺されるんじゃないだろうか」と怯えました。

(彼はたぶん、全ての市外局番の番号に繋いでただけで、私の家に電話が来た段階では特定できてなかったのかも……ああ運がいい)

怯えてはいたけれど、「自分が原因です」なんて親に申告できるはずもなく、親の前では何もない風を装っていましたね。

 

 

しかし、無言電話の嵐はその日だけでした。次の日にも次の次の日にも、公衆電話からの電話はかかってきませんでした。不審者情報もありませんでした。

で、こうやって無事生きてる、というわけ。

 

……という、何のオチもない怖くない話(バカの話)でした。

 

 

ここから学び取れる教訓。

 

子供には不用心にネット環境を与えないこと。

これ本当に大事。

私みたいなアホな子にはいくら啓蒙したって無駄です。脳と手が直結してて、せいぜい数分後のことしか考えてないので、親が監視できないならいっそ「ネット環境を与えない」という選択肢もありかと思います。ウチの子は大丈夫!なんて思ってても、その保証はどこにもないですからね。物騒な世の中ですから。

 

 

まあ結局、私が単にアホだっただけなんだけどね。

 

証拠ももはや全然ないのでこれを信じるかどうかは皆さんにお任せしますが、ともかく子どもの私のアホさを見くびらないように。彼らはやりますよ。やるときには。

 

ご清聴ありがとうございました!

 

 

……ってか、この記事をN君は見てない……よな?よな。