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ちしきよく。

雑多系ブログ。みなさんの「何かを知りたい!」という欲を叶えましょう。

【ネットの怖い話】ユーザー名を電話番号にしてたら変な電話がきた話

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私はアホでした。

 

アホでした。アホでしたので、オンラインゲームのハンドルネームを電話番号にしてました。市外局番は含みません。

自宅の固定電話の番号です。

その結果家に無言電話がかかってきた、というすべらない話。ゾッとする話か。

 

実は今もアホです。

 

 

オンラインゲームとの出会い

今日は自虐風なので敬体でいきます

 

私がオンラインゲームと出会ったのは小学3年のころでした。当時はパソコンなんてのもデスクトップ型の分厚いやつしか家になく、パソコン備え付けのゲームに勤しんだりゲームの動画をYoutubeで漁ったりしてました。父親のだったんですが、後ろからパスワードを覗き見て勝手に入るぐらいの知恵はありました。彼が仕事に行っている間にこっそりやってました。

 

ですがそれだけの娯楽では足りなくなるのが子どもというもの。私とて例外ではなく、Yahooきっず(懐かしい響き)ではなく普通のYahooで検索をかけ、さらなる刺激とストレス発散の場を求め、たどり着いたのがカタカナ5文字のゲームサイト。出すとディスるみたいになるんで、名前は伏せます。

 

たしか「ゲーム 無料」で調べた結果ここが出てきた……ぐらいの理由だったと思いますが、なんとかして親のメルアドを探し当て、適当に家の電話番号を打ち込んだらアカウントが作れちゃったからさあ大変。(電話番号は市外局番なしです。まだマシだったのかな)

 

で、そのまま、とあるオンラインゲームを始めました。

 

 

こっちも、そんなに深い理由があったわけでもなく、ただトップ画面に「オススメ」として表示されていたからにすぎません。が、「カンタン操作!」みたいな文面が齢9の少年のアホな精神をくすぐったのは覚えてます。

 

そうして魅惑の世界に足を踏み入れました。「〇〇〇123」という名前をキャラクターにつけてゲームスタート。こっちは本名とも住所とも関係なかった。

 

アカウント名(ユーザー名)とゲームでの主人公のキャラ名は別でした。今思えばこれが不幸中の幸いだったのかなと。

 

友人のN君

そのうち私にも友人ができ始めました。怖いので一応伏せときます。N君です。

初心者専用のルームでやってたんですが、私がログインするたびにそこにいて、すぐに仲良くなったのを覚えてます。当時は何も思いませんでしたが、不自然極まりないですよね……。

学校はどうか~?とか〇〇というモンスターがどうだ~とか、まあ他愛もない会話です。小学生どうしだからそんなもんなんでしょうかね。

 

すぐに打ち解けてフレンド登録、毎日数時間チャットに入り浸り、いろんな話をするという感じでした。

 

ある日彼が唐突にこんなことを聞いてきました。

「〇〇〇123は女の子?」と。

私はキャラクターを作る時、髪の短い子を選んでましたが、なんとそれは男じゃなくて女だったようです。道理で男専用兜が装備できなかったのかと、その時納得しました。

が、なんとなく知られるのも嫌なので、「どっちだろうねー」とごまかしました。

そこでちゃんと教えてれば……!

 

N君は本当の小学生か

当たり前ですが、フレンドとはいえど、名前とか住所とか電話番号などは自分から明かさなければ絶対にわからないようになってました。一定の安全性はあったわけです。

そう、自分から明かさなければ。

 

つまり逆に言えば、実際には小学生ではないのに、小学生を偽ってアカウントを作ることなんてほんとに容易いんですよ。そこらへんは完全に使用者のモラルにゆだねられてました。

というか本当に小学生かどうかなんて運営側じゃ確認取れないので、ゆだねるしかないですよね。

 

しかしまだ疑うなんてことを知らない小学生が、「今喋ってるこの人は本当に小学生か」なんて感じるはずもなく、私は当時、N君は本気で小学生だと思ってました。仲の良い、気の合う小学生の男の子だと。

 

その反面私は電話番号をアカウント名で明かしてました。

この非対称性が私に悲劇を招くことになります。

 

アレは電話番号なの?

ゲームの中のキャラクターのアカウントと自分のユーザーページは紐づけされてますから、その人のアカウントのページまでひとっとびすることができます。

 

そうすると何が起こるか。N君には私のユーザー名(電話番号)がばれてるわけですから、そりゃあもう「ココに電話して!!」って言ってるようなもん。

 

彼はとうとう禁断の質問を私にしてきました。

「アカウント名あるじゃん。

アレって、家の電話番号?」

 

私はなぜか怖くなって、普通に「好きな数字」とか言えばいいのに、(まあそれでも苦しめの言い訳か)黙って部屋を出てしまいました。

もうね、アホかと。黙って出てったらもう「ハイ電話番号です」って言ってるようなもんじゃんか。何か言えよ。

 

で、その後、もう彼に会うのが怖くて、「電話が来るかも!」と思うとログインもできませんでした。そういうところはしっかりしてたというか心配性というかただのアホでしたね。

 

無言電話の嵐

忘れもしない8月23日の夕方。泳ぎ疲れて帰ってくると、母親がふとこんなことを口にしました。

『たくさん電話がかかってくるんだけど』と。

 

私は嫌に高鳴る心臓を必死で抑えながら、どういうことか聞いてみました。

夕方、連続で5回ぐらいだったそうで、さすがに母親も怖がってました。最初の2回は出ましたが、残りはずっと電話には出なかったらしいですね。そりゃそうだ。

表示には「コウシュウデンワ」と書いてあったので、おそらく彼で間違いないと思います。

 

でも、実は無言電話だけじゃないんですよ。1回目の最初、彼こう言ったみたいで、そこからずっと黙ってたらしいです。

 

「女?女?」って。

その時の肌の粟立ち方はおそらく人生でもトップレベルでした。

未だに覚えてます。

 

母親は何も答えなかったそうです。まあ意味不明だから当然か。

私には意味がわかりましたが……。

 

N君という名前で活動してた「ソイツ」は、私が書いていた市外局番なしの電話番号に、考えられる市外局番を手当たり次第に代入して電話をしてきたということになります。

 

http://www.jpnumber.com/outnumber.html

によれば、日本の市外局番は391個

私の公開していた電話番号の桁数である程度察しがつくとはいっても、この数に近い電話を次々にしているだけでもどれだけの時間がかかるか。

 

私は逃げるようにキャラを削除し、二度と出入りしませんでした。

 

次に怖かったのは住所特定です。もし市外局番が絞り込めるならば、少なくとも市町レベルでは住所がわかっていることを意味するわけで、「そのうち本当に気持ち悪い奴がウチに入ってきて、ぶっ刺されるんじゃないだろうか」と怯えました。

(彼はたぶん、全ての市外局番の番号に繋いでただけで、私の家に電話が来た段階では特定できてなかったのかも……ああ運がいい)

怯えてはいたけれど、「自分が原因です」なんて親に申告できるはずもなく、親の前では何もない風を装っていましたね。

 

 

しかし、無言電話の嵐はその日だけでした。次の日にも次の次の日にも、公衆電話からの電話はかかってきませんでした。不審者情報もありませんでした。

で、こうやって無事生きてる、というわけ。

 

……という、何のオチもない怖くない話(バカの話)でした。

 

 

ここから学び取れる教訓。

 

子供には不用心にネット環境を与えないこと。

これ本当に大事。

私みたいなアホな子にはいくら啓蒙したって無駄です。脳と手が直結してて、せいぜい数分後のことしか考えてないので、親が監視できないならいっそ「ネット環境を与えない」という選択肢もありかと思います。ウチの子は大丈夫!なんて思ってても、その保証はどこにもないですからね。物騒な世の中ですから。

 

 

まあ結局、私が単にアホだっただけなんだけどね。

 

証拠ももはや全然ないのでこれを信じるかどうかは皆さんにお任せしますが、ともかく子どもの私のアホさを見くびらないように。彼らはやりますよ。やるときには。

 

ご清聴ありがとうございました!

 

 

……ってか、この記事をN君は見てない……よな?よな。

新興宗教全部が危険なものと捉えられがちな理由について一考

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今日、このような増田の投稿を見かけた。

anond.hatelabo.jp

 

私の会社にはクリスチャンがいる。しかし私を含め誰一人、その事で不安になるものは居ない。(中略)
しかしこれが新興宗教となると気持ちが一変する。私の中の警告アラームが鳴り出し、倫理観で抑えようにも抑えきれずにいる。そしてこれは私だけの感覚で無いと確信さえしている。

 つまり、この増田さんは「自分でもダメなのはわかってるけど、どうしても新興宗教の入信者と伝統的な宗教の入信者との間に、差をつけてしまう」ということで悩んでいらっしゃるらしい。また増田さんの仰る通り、この二つに差をつけてしまう日本人は恐らく結構多いと思う。私もなぜかそうだから。

 

この差は何なのだ。なぜ受け入れられる信仰と、受け入れられない信仰が、無宗教である私の中に既に形成されているのだろうか。
そんな事を考え続けいるのだが一向に答えが出ない。

そう、まさにこんな感じだ。

 

だから今回はこの差、そしてこの差がどこから生ずるのかについて扱ってみようと思う。信仰というのはかなり難しいテーマになるゆえ、ことばには配慮したい。

 

新興宗教の定義

まず字面上の定義をしっかりと押さえておこう。

伝統宗教というのはいわば「昔の昔から信仰されている宗教」のことである。昔の昔というのがどのくらいを指すかというと、実は国によってまちまちだ。

(新興宗教はその逆、比較的近代に生きる・生きた誰かによってつくられた宗教だろう)

 

例えばアフリカ人は伝統的にアニミズム(目に見えない霊魂が自然のいろんなものに宿っていて、それによって自然現象を説明しようとする思想)を信仰していたが、19世紀に宣教師がアフリカに渡って以来、キリスト教が広まった。

 

実はアフリカ人から見れば、「アニミズム」こそが伝統宗教であり、本来日本では「伝統宗教」とされているキリスト教は比較的新しい宗教なのだ。

 

www.christiantoday.co.jp

種族宗教といったものが無視されたり過小評価されていた時代、アフリカでキリスト教を広めることに宣教師たちは成功していた。しかし近刊『アフリカにおける神の概念』(新版)は、キリスト教が実際には伝統宗教のいくつかの解釈によって助けられている、と指摘する。

 

ここでいう伝統宗教はお読みいただければわかるが、キリスト教やユダヤ教などの、いかにも伝統伝統した宗教のことではない。彼らがもともと信仰していたアニミズムのことだ。つまりキリスト教は伝統宗教とはみなされていないことを示す。

 

日本で言えば専ら、

伝統宗教……明治以前に誰かが作った宗教

新興宗教……明治以降に誰かが作った宗教

という風に区別するらしい。

既成宗教に対し、新しく興った宗教。多くは教祖を有し、現世における救いを説くものが多い。新興宗教。
特に、幕末・維新期以降発生した多くの宗教集団をさす。(デジタル大辞泉)

 

つまり、字面での定義だけで考えるとこれ以外の差は存在しないようだ。

にも関わらずこの二つにそれ以上の差があるように思われてならないのは、きっとこの増田さんや私だけではないような気がする。

 

それを解明するため、特に「新興宗教」ということばがどのように用いられるかを探ってみようと思う。

 

新興宗教=カルト宗教?

本来は新興宗教ということばは専門書とか文献ではあまり用いられず、新宗教のほうがよく使われる。にも関わらず現在一般には「新興宗教」のほうが膾炙している印象がある。

 

このことばについて、日本人はどんなイメージを持っているだろう。

おそらく宗教についての知識がほとんどない、無宗教的(と自分で思っている)日本人ならば、新興宗教なるタームに「危ない」とか「怪しい」というイメージがつきまとってしまうのではないだろうか。

少なくとも、よい印象は抱いていないように思われる。

 

日本では宗教による様々な事件が起こっており、新興宗教=危ないという価値観はその事件ごとに次第に熟成されていったものと考えるのが自然だろう。

昔の日本人の宗教観がどういうものだったのかは詳しく文献をたどらないとわからないが、今の日本人に関していえば例えば「オウム真理教の地下鉄サリン事件」「はいみなさん最高ですか の超宗・法の華三法行 の詐欺事件」などの報道を聞いたことで、「なんとなく(新興)宗教ってヤバそうだな」というイメージがついてしまっていると思う。本当は別に何の害もない、普通の新興宗教もあるのだが。

 

平たく言えば、ごくごく一部のカルト的な宗教と普通の新興宗教とが一緒くたになっていることで、新興宗教全体が風評被害を受けてしまっている、ということだ。

その一緒くたなのをちゃんと切り分けて考えられるような人というのもなかなか存在しない。このようにして「新興宗教=危険」という謝った一般化が進んでしまったのではないか。

 

宗教への無理解が引き起こす偏見

 

この根本的な原因には、「宗教への無理解」があるように思われる。

日本人は普段から宗教を意識することがほとんどない。神社にお守りを買いに行き、クリスマスを祝い、でも葬式は仏教式、だけど自然にはいろんな神様がいるとも思っちゃってる。この雑多具合はむしろ「宗教性」を日々の暮らしから取り除くのに役立っている。これは結構変わっているらしい。

 初詣もクリスマスも節分もハロウィンも何もかも、本来の宗教的意味を意識することはほとんどなく、「みんながやってるから」「なんとなく楽しいから」ぐらいの理由でやる。

 

そういうわけで逆説的ではあるが、宗教にあまり関心を示さない日本人は、数々の宗教を危険なものとして排除しようとするのかもしれない。

 

異端さの尺度

その際、「本当に危険かどうか」「どのくらいカルト的か」というわかりにくい尺度ではなく、「どのくらい異端か」というまっこと主観的な尺度で切り分けられる。

切り分けるというのは区別するのと同義で、これが増田さんの「どうして我々は新興宗教と伝統宗教を区別してしまうのか」という問いへの理由説明になっている。

 

即ち、我々が宗教というものを二つに切り分けるとき、「どれくらい我々に身近か・聞き覚えがあるか」という主観的な尺度を用いるため、必然的に年中行事が絡む宗教、日本で流行していた宗教は身近なものとして、つまり危険じゃないものとして認識されるが、その逆……聞き覚えがない宗教は危険なものにカウントされてしまいがちだ。

そして、前者は主に伝統宗教(仏教とかキリスト教とか)が入り、後者には新興宗教がよく入るため、半必然的に「伝統宗教はまあいいけど、新興宗教はなんか危険そう」というイメージが生まれるのではないだろうか。

 

データに基づいて、この宗教はどんな事件を起こして何人を巻き込んだか……?という議論をするならば、つまり尺度が「どのくらい危険でないか」ならば、オウム真理教のような危険な宗教とその他の人畜無害な新興宗教とをある程度は分けて考えられるのだが、そのようなメンドイことをやろうとする人もあまりいないので、「新興宗教ってなんとなーく危険そうだけど、どこがどう危険なのかは説明できない」のも無理はない。

 

そしてこの根拠になるのが、「社会学の専門用語である『新宗教』ではなく、『新興宗教』ということばが一般に膾炙している」という事実だ。体系化された学問を(仮にの話だが)全員が学んでいたとしたら、その専門用語を使うに違いない。が、実際には、社会学ではあまり用いられない、新興宗教ということばのほうが日常でよく使われている。みんな実はあまり学んでないんじゃないか?という印象を持った。

 

もちろんことばの使用だけで決めつけるのはあまりに安直だとわかっているが、日本人の宗教への無理解を示す一根拠ぐらいには、なるのではないかと思う。

 

もしくは、Youtubeのオウム真理教関連の動画に湧く、「こんな最低なことをする奴らは即刻死刑でいいよ」というような極端な言論も、根拠にはなるだろう。

おわかりかとは思うが、あの事件が本当に恐ろしかったのは、「自分か、自分の身近な人たちが、役割を与えられることでいとも容易く非人道的行為に走ってしまう」という事実であり、彼らは決して生来の悪魔なんかではなかったのだ。

自分がいつかそうなるかもしれない、という考慮をせず、「最低なことをする奴ら」だと口汚く罵るさまは、危険な宗教の本当の怖さについて何一つわかっていないのだなぁと思わされるが、どうだろうか。

 

カルトかどうかの判別は難しい

その宗教を「どのくらい身近か」で主観的に分けることはあまりよくないにせよ、「じゃあカルトかどうかどうやって客観的に判別するんだ」と聞かれると、これがなかなか難しいのである。どんな事件が起こったか、いくら騙されたかなどは判別できるが、それがどのくらい人々にとって脅威か、まさか点数をつけるわけにもいかないし。

 

サリン事件を起こして国家転覆を謀ったオウム真理教は言わずもがなにせよ。

だが、たとえば「御布施」と称してけっこうなお金を人々に払わせる宗教が「本当にカルト的か?」と聞かれると、確かに悪質ではあるだろうが彼ら自身が心から望んで払うのであれば……という風になってしまう。宗教である時点である程度の洗脳は免れないのだし、その線引きも難しい。免罪符の例も過去にはあるしね。

 

かといってお金を宗教に払わせることを全面的に禁止なんてすれば、おちおち戒名も付けられないだろう。そもそも御布施で成り立つ新興宗教も多いのだし、宗教自体が立ちいかなくなる恐れもある。

 

フランスでは、「セクト(日本で言うカルト宗教みたいなやつ)を一目で判別するのはめっちゃムズイ」と言いながらも、だいたいの指標みたいなものが存在する。

 

精神的不安定化、法外な金銭要求、元の生活環境からの引き離し、身体への加害、子どもの加入強制、反社会的な言説、公序侵害、裁判沙汰の多さ、通常の経済流通経路からの逸脱、公権力への浸透の企て

ci.nii.ac.jp

より引用

 

これに一つでも当てはまればカルト宗教リストに載るわけだが、逆にギリギリセーフの宗教をカルト認定すると、多くの人が批判するのは目に見えている。

この指標も絶対的なものでは決してなく、導入までに多数の批判があったことは覚えておきたい。思想の自由や信仰の自由とカルト認定で折り合いをつけていくのはスンゴク難しいのだ。

 

というわけで何が言いたいかわからなくなってきたところで結論を出そう。

 

今日のまとめ。

「新興宗教を危険なものに捉えてしまう」のは、我々の宗教への無理解が原因の一つだと思われる。無理解であるがゆえ、宗教の線引き基準は「本当にそれが危険かどうか」ではなく、「自分にとって身近か・聞き覚えがあるか」になり、その結果、割と身近で聞き覚えのある伝統宗教は「危険じゃない」が、身近じゃない新興宗教は「危険だ」と捉えられやすい。(絶対的な指標ではない)

だがかといって、本当に危険かどうかを判別するのもまた、一筋縄ではいかず、議論はとても難しいだろう。

 

 

……という話でした。かなり、いやとても主語が大きいと自覚してますが、私一人だけの問題にしちゃうと何も議論できないので、ある程度はお許しください。

 

 

追記:日本ほど宗教に無関心でないであろうヨーロッパの国々でも、「新興宗教そのもの」に対する差別がないとは言えないだろうし、以前、主流派でない(支流派である)プロテスタントが(主流派の)カトリックから蔑まれてきたという過去もあります。

そもそも「セクト」ということば自体、分派という意味です。

もしかしたら、自分から見た異端なものを危険なものとして遠ざけたがる心理は、日本人に特有のものではないのかもしれません。つまり日本人の宗教への無理解はあんまり関係ないという、私からすれば泣きたくなるような結論さえ導けるのです。

……その場合、さらに主語が大きくなるわけですが。

コンビニの「あっ袋いりません」の「あっ」って

コンビニに行っておにぎりとペットボトルの茶をチョイス。

おにぎりは温めてもらう。

 

別々の袋に詰めようとする店員。

 

「あっ、袋いりません」

……そういえば、いつも「あっ」って言っちゃうけど、これってどういう意味があるんだろう。自分でも意識しないけど、何か儀礼的なものなのか、それともただ驚いただけ?一体どうなってるんだ。

お金を払ってお釣りをもらう。これは一考の価値あり。

店を出る。

 

「お客様、商品忘れてますよ」

 

というようなマヌケエピソードがあったので、ちょっと考えてみよう。

今日の議題はズバリ、店で突如口にしてしまう「あっ」は一体何なのか、という問題だ。

 

「会話の波長」とは

そこで今回私が取り出すのはこの用語。会話の波長。

波長ってのは物理の用語で、波の長さのこと。

 

あの人とは波長が合わないなあ~なんて使い方をするけど、それと同じ。

 

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こっちは「波長が合ってる」。

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こっちは「波長が合ってない」。

 

会話においての波長ってのは、どうも「調子」とか「相性」と言い換えられるみたいなんだけど、「あっ袋いりません」について言えば、どうだろう……。

さすがに客と店員で接しただけ(=お互いのことをなんにも知らない状態)で、相性ってのがわかるんだろうか。

 

 

じゃあ結局私がなぜこの用語をあげたのか、というと。

「あっ」を多用する場合ってのは2種類あって、そのうち一種類は「コイツとはなんか調子合わねえな~」という場合。

それをなんとか振り切ろうとして「あっ」が自然に出てくる(と、私が個人的に感じた)からだ。

例えば、ニガテな上司や先輩や先生に対して。

 

あっ、……この前の件ですがどうなりましたか」

なんて尋ねたことは、誰にでもあるのではないかと思う。

だから、まずこっちのほうを分析して、それをもう一つの種類……「店員のような初対面の人に話しかける場合」に活かしてみよう、と考えたのだ。

 

会話の波長はどこに生ずるか

それで、みんながなんとなく思ってるであろう問いをまずコトバにしてみる。

「会話の波長ってのは、どこにあるわけ??」

と。

 

私の考えでしかないが、それはたぶん「話し方のタイプ」によるのではないかなと思う。まず人間を4つのタイプに分けてみる。

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すごく当然の話だが、「一方がしゃべってれば、もう片方は黙ってる」という状態が続くのが会話ということだ。どちらも黙ってたり、どちらも喋ったままでは、とても会話とは呼べない。

 

……というのを頭ではわかっていても、やはり「聞くほうが得意だわ」とか、「オレ、話すほうが好きかも」というように、人それぞれタイプが出てくる。

 

 

が、このタイプというのがたぶんすごく厄介で、何かというと、会話の波長を決めてしまう要因になりやすい(と思う)。ぶっちゃけ学術的な根拠もないです。

 

日常生活で、「あのお喋りな〇〇さんと、無口な▽▽さんがいつも一緒にいるのって変だなぁ」という例はないだろうか。その場合、彼らは私のわけたタイプでいう「話し型」「聞き型」に当てはまってるんじゃないかな。

〇〇さんはいっぱい話せてストレス発散、▽▽さんは面白い話が聞ける、と、お互いに利益をもたらしあう関係になっている。だから離れにくいんじゃないかと。

理想的には、しゃべりも聴きも両方できる両立型が2人いることだが、そんなのは非常に稀で、たいていは皆どちらかに偏っている。

 

これが、「話し型」二人とか「聞き型」二人とか「苦手型」二人だと、会話の波長があまり合わなくなって、先ほどの「あっ」が自然と出てしまうのではないか。自分と相手の領域によって、会話の弾み方が違ってくる。これは経験上割と自明だと思う。

 

さらに輪をかけて厄介なのは、自分と相手がずーっと同じタイプに属してるとは限らないということ。

「サッカーのことならずっと喋ってられる」Aくんは、同じく「サッカーのことならずっと聞いてられる」Bくんとは波長が合うだろうが、「落語のことならずっと聞いてられる」Cさんとは波長が合わないだろう。結果的に、AくんもCさんもその場では「会話苦手型」に属してしまう、というように。

趣味、年齢、役職などで、その人がどこに属するかは刻一刻変わっていくのだ。だから「この人とは話が合うが、あいつとは合わないな」とか、「前は波長が合ってたけど、今は合わないな」となりがちなのだろう。

 

もう一つの例―初対面―との矛盾

でも、初対面の場合というのは、相手と自分の領域がわからないから、そういう遠慮なんてのも生まれないはずで、矛盾している。

確かに私も、「うわーこいつ、金髪にピアスまでしててなんかチャラいぞ」というタイプの店員にはちょっと話しかけづらいが、そういう限定的な話はしていない。

あぁ活かせなかったか。……まあいずれ役立ちそうだからとっとくか。

 

私はもっと万能に使える「あっ」論が欲しいのだ。

 

……考え方を変えねば、と思っていた矢先だった。

 

ついにこの答えのようなものを見つけてしまった。

 

言語の回路 

何の変哲もないスーパー。普通のスーパー。

そこにやってきたのがとある白人男性。

背と鼻が高くてすらっとしてる。かなりイケメン。

 

「歯ブラシありますか」

私の耳には確かにそう聞こえたが、店員の人はかなり長い時間黙っていた。

しばらくしてようやく束縛が解け、「すみません、もう一度」と人差し指を上に立てた。

「すみません」

店員さんは口を開けたまま、「はい」とだけ答える。

「歯ブラシはありますか」

今度はかなり強調した感じで言う。

「あぁ~!歯ブラシですね、すみません、今案内しますので!」

 

……という話。

おそらくだが、店員が黙り込んでしまった理由はここにある。

「白人=英語で、英語で話しかけられると思っていたから」だろう。

日本ではまだまだ単一民族国家に単一言語が対応していて、それは日本では日本語に他ならない……と思う人が多い。要するに、イカニモな外人さんを見れば、それはもう普通の人にとっては「英語で話しかけられる!」なのだ。

であれば、店員さんは恐らく短い英語教育の中で使えそうな文章をあれやこれやと引っ張り出そうとしているうちに話しかけられ、それが日本語であるとも気づかないぐらいにはパニック気味だったのだろう。

 

その後、「すみません」という日本語のコードを出され、日本語で話しかけられているとようやく理解。回路が日本語に戻った。

 

(※店員さんの感情はすべて私の思いこみなので、これが正しいという条件でこれからの話は進みます)

 

これで答えはわかってしまった。

解説に移ろう。

 

相手の思考モードを切り替えさせるチャンス=あっ

店員はともかく、客も客として暗黙のマニュアルに従って行動する。

 

おにぎりと水だけ買うなら箸はつけない!とか、ガムだけ買うならワサビはもらわない!とか。そういう『常識』とでもいうべきマニュアルがあって、知らず知らずのうちに行動しているのだ。客であるこっちも。

両者がマニュアルを満たす限り、業務は円滑に進むし、それが大半だろう。

 

しかし、「店員はおにぎりと茶を別々の袋に入れて渡す」という行為がマニュアルそのものであるのに対し、「同じ袋でいいです」と客が宣言することは、ある意味マニュアルを破くのに等しい。軽く言えば、暗黙の取り決めから脱するということ。

 

 だから、それをいきなり言ってしまうと、店員も困惑してしまうだろう。

そうならないように、「あっ」というワンクッションを置いて、

今から私は暗黙をぶち壊しますよ~というアピールをするのだ!

 

これはさっきの白人男性の例と等しい。

 

 

店員さんは「マニュアルモード」で動いており「外国人ならば英語で話すだろう」と考えていた。それは言語化されない、いわば暗黙の了解だ。

しかし彼は英語じゃなくて日本語で話しかけてきた。(これは客側がいきなり「袋一緒で!」と叫ぶのと同じ)

ところが店員さんはまだ「マニュアルモード」で行動していて、彼の日本語に対応できなかった。たぶん英語を喋っているように思われたのだろう。

そこで男性が「すみません」というワンクッション……『私は外国人だけど、日本語が話せますよ』と意思表明(暗黙をぶち壊すよ~と宣言)したので、ようやく対応できた、というわけだ。

 

日常会話においても同じことが言える。

自分の家の話をしていたのに、急に話題がカレーに飛べば、「その会話におけるマニュアル」が破かれ、何の話をしているのかわからなくなるだろう。であるからやはり暗黙をぶち壊すためのことばが欲しい。

ここでは「ところでメッチャ話変わるけどさ、」がワンクッションにあたる。

 

 

そう考えると、コンビニで交わされる「あっ」にも、こんな意味が見出せるのだな~とちょっと感動……しないですかそうですか。

 

 

ん、んんん?ちょっと待てよ。

会話のタイプが違うときに使われる「あっ」も、これと同じじゃないか?

 

会話が弾まないのでお互いに気まずくなっている。

「相手に話しかけないこと」が暗黙の了解になっている。それをすぐ壊すと相手が戸惑いそうなので、「今から自分は話しますよ~」というアピールをする。

 

そのための「あっ」か!「あっ、」なるほど!

(二個目のあっは用法が違うが……)

 

 

……という話でした。おしまい。

ここまで4000字を読んでくださった方は既に「あっ」マスターなので、明日から友人に連呼してみましょう!バールのようなもので殴られると思いますが。

 

それでは。

 

水からの伝言を学校教育に使うのだけはやめてくれ~!

今回は「ほぼ嘘とわかっているけど、なぜか広く受け入れられている」ものを取り上げてみよう。

ずばり「水からの伝言」だ。ネタが古いけど、未だにやってる学校もあるとか何とか。

 

水からの伝言

水からの伝言とは、簡単に言えば次のような主張ね。

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「シャーレに入れた水Aと水Bを冷凍庫に入れた。Aには適度に『ありがとう』Bには『ばかやろう』と書いた紙をそれぞれ貼っておいた。その後凍らせたところ、Aはきれいな結晶が、Bは汚い結晶ができた。

人間の身体の数十%は水なのだから、きれいな言葉を使おう!」

と。私の小学校ではこれが道徳の教育に使われていた。

皆さんのところではどうでしたか。

 

ついこの間、塾で教えていた生徒がこれを習ったみたいで、どう説明すればいいのか窮したので、こうやって記事にしてしまう。(生徒にはこのブログ教えてないから意味ないけど)

私はいちおう「そんなに物事は都合よくいかないよ」と説明したが、何だかなぁ~、と思ってしまった。

 

科学による「予測」

もしあなたのもとに一人の不審な男が現れて、こう言ったとしよう。

「明日、太陽は西から上ります」

でもあなたは反論できる。

「ずーっと、昔から太陽は東から上り続けている」という観察事実と、天体の運動に関する知識を組み合わせることで、「いいや、東から上るぞォ!!!」と断言できる。

 

 

科学に必要なのは2つね。観測と理論(or仮説)検証の繰り返し。

そうしてさっきみたいな、予言じみたことまで言えてしまう。

「明日運動の法則が突然変わりでもしない限り、太陽は東から上るよ」と。

 

これが科学の素晴らしいところ。観測と検証を繰り返すうちに、「ほぼ間違いなく正しいと言ってもよいであろう部分」が浮き上がってくるんだ。

そうして、自分が実験していないことまで「予測」することができるようになる。今までの実験結果と総合的な理論で以って仮説を立て、未知のことも推測できるんだ。

人間ってすごい。

 

(「水からの伝言を否定する奴らは反証実験してから言え~!」と、信者?たちは言うが、)今回の「水からの伝言」も、そんな科学的常識に照らし合わせてみれば、実験せずとも嘘だとわかってしまうようなもんなのだ。本来は。

 

実験方法の問題点

観測と検証を繰り返すうえで大事なのは、「観測結果が正しいか」と、「仮説の検証方法は正しいか」なんだけど、半分ぐらいのニセ科学(水からの伝言含む)はだいたいここで打ち止め。どっちかが間違ってたり、どちらも正しくなかったりする。

 

観測結果はまあいいとしよう。きれいな結晶が見えてるから(下手すれば結晶でさえないけど)。

 

まずいのは仮説の検証方。言い換えれば実験方法か。

 

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のほうがより「綺麗」と結論づけるためには、たくさんデータを取らなきゃいけない。でもこの本ではただ数十のきれいな写真を貼っつけてるだけだ。それもかなり作為的に。(本で明言されてます)

つまり、わざときれいな奴だけを選び取ってるってことだ。これはもう科学じゃないよ。別の何かだよ。

ありまぁす。

 

それに「綺麗」とは何かも、定義されてない。結晶の形がどれくらい理想の形からずれているかなどを数式化するなりして、客観的に「綺麗」を定義しようね。

 

水がことばを理解するという大胆な仮説を証明するには実験や考察があまりにお粗末なのだ。

 

言語から見た問題点

言語の方面からもアプローチをかけてみよう。

 

ありがとう のもつ意味について考えてみる。

 

よくよく考えてみると不思議なのは、それぞれの文字(あ り が と う)には全く意味がないのに、この5文字がこの順番でつながったときにだけ、「相手に感謝を示している」という意味になるってこと。

 

そしてもっと不思議なのは、誰が書いたどんな文字の「ありがとう」でも、そこに感謝の意を見出すことができる ということ。文字の形が変わっても、「ありがとう」だと判別することができる。

本来なら文脈で意味を判別するんだけど、実験では5文字しか書いてないみたい。

 

そんなに難しい話じゃないよ。信号機の「赤」はどこの国でも「止まれ」を意味する。それはみんなが「赤」の裏に隠されたメッセージを読み取ってるからだと説明できるね。

 

確かに赤を視覚情報として受け取っているんだけど、それだけじゃない。「赤=止まれ」と脳内で理解して、情報を処理して、止まらなきゃ!!って思うからなんだ。

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(http://www46.tok2.com/home/echigoya/traffic_signal/sin_cs_signal.html)

 

 

だとすれば水も人間と同じアタマを備えているということになる。

文字として書かれた「ありがとう」、ただの黒鉛の集合体でしかないそれをまず視覚情報として認識し、文字とみなし、意味を見出して、「善いことば」として理解して、自分の身体に表すぐらいのアタマがあることになる。そんなのどうみたっておかしいよ。

水は知的生命体かよ。

 

 

そしてもう一つ、「いったい何が善いことばなのか」という疑問がある。

 

つまり、ある言語ではきれいな言葉だけどもう一つの言語では汚い言葉を見せたとき、どういう結晶を作るか、って問題。例えば"shine"。

 

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つまり、英語では(たぶん)きれいな言葉だけど、日本語では汚い言葉になるわけで。じゃあこのとき水はどういう結晶をつくるのか?

日本の水はやっぱり日本語しか理解できないのかな。いやいやそんなはずはないだろう。英語だってドイツ語だってロシア語だって、全部理解できるはずさ。

頭いいし。

って……

 

水は多言語話者かよ。

 

 

他にも、「人間がいないとき、水はことばを知りえたのか」とか、「動物の鳴き声も理解できるか」とか、「宇宙人語もわかるか」みたいな疑問が出てくるわけだけど、いちいち立ち止まって検証しない。ぜーったい水は言葉なんて知らないもん。

 

 

……というかんじで、水からの科学は科学ともいえないシロモノだということがわかったわけなんだけど、これを教育に持ち込むと、また別の問題が発生する。

私が嘆いているのはむしろこっちのほうだ。実験なんて勝手にやってください。

 

科学を道徳で裏付ける?

皆さんもご存じのとおり、宗教にはまず原理がある。それは「物語」って呼ばれてて、まあ神話みたいなもんだ。世界がこういう風に神によってつくられました~とか、神はこういうことを嫌うからみんなしないようにね~みたいなことがあらかじめ決まってる。決まってるから論破しようがない。だから原理。

言い換えれば、「絶対的な善」がそれぞれの宗教にあって、人々はそれに則って行動することで、幸せを得ていたということだ。

 

残念だけど科学はそうじゃない。厳密に厳密に説明しようとすればするだけ、曖昧模糊な表現を使わざるを得なくなる。これについてはまた後日詳しく取り上げる。

ずばっと二分法は使えない。

まあ早い話、科学に善悪という価値観は持ち込めない と思ってもらっていい。「オレ、万有引力嫌いなんだよね」と言えないのと同じように。

 

宗教を貶しているつもりはない。宗教は宗教だと最初から判別できる限り問題はないんだけど、水からの伝言は違う。

 

かなり過激に言うと、水からの伝言は、科学という段ボールをかぶったまま、生徒たちに善悪の絶対的価値観をぶっ刺すようなものだと思っている。

 

まず科学じゃないから段ボールをかぶってる。擬態してて生徒の目には科学にしか見えない。

ソレがこう語りかけてくるんだ。「水はきれいな言葉を使えと言っている。使え。使え」と。水が「きれい」と思ったものはきれいな言葉で、「汚い」と思ったものは汚いのだから、これは善悪の絶対的価値観の押し付けに他ならないだろう。

結局生徒は、これが科学の皮を被ったエセ宗教だということにも気づかないまま、価値観を刷り込まれていることになる。

 

科学に善悪は本来ないはずなのに。

 

絶対的ではない善悪

そもそも、きれいとか汚いってのは何が決めるのか。

文脈だ。状況だ。

美辞麗句としての、ムカムカを顔に滲ませながら言われる「ありがとう」より、自分が溺れかけたとき、命をかけて助けてくれた両親が言う「ばかやろう」のほうがよほど善い言葉だと私には思われてならない。

いや、それも主観にすぎない。絶対的によい言葉などというのはこの世に存在しない。

 

道徳というのはそれほど簡単なものじゃない。

善悪なんてのは場面や状況によっていくらでも変化しうるからだ。

その判別の難しさを教えるのが道徳教育じゃないのか。

どうして安易に他のものに善悪の判断を任せちゃうのか。

 

どうも私には、生徒に絶対的な善悪観を押し付けたうえ、それが押し付けだとも気づかせない、かなり悪質な教育を施しているように思われる。

 

 

水からの伝言はヒキョウだ

なるほど道徳的主張としては間違っていない。人を傷つけることばは使わないようにしよう!というのはほとんどの人が当たり前のこととして思っている。

そしてまた、それを生徒に早い段階で教えこむ重要性も理解している。

 

だが、それを裏付けるための根拠として科学を使うのはあまりに卑怯だ。

説の正しさを立証する時点で、(説を正しいと認識する時点で)

 

科学は善悪を測るための道具ではないこと

善悪は一つのものによって簡単に決まるものではないこと

 

この二つの真実に覆いを被せてしまっているからだ。

 

であるから、これをお読みの教育関係者の方がいらっしゃれば、どうか「水からの伝言」を教材として使うことを思いとどまっていただきたい。

こんな悪質な教材を使うぐらいなら、他にもいっぱいあるだろう。

まだイソップ寓話のほうがいい。

 

ちなみに私はこの話を初めて聞いたときかなり驚いて信じてましたが、後から嘘だとわかって相当ショックでした。そういう子がでちゃうのもまた可哀想なので、使わぬようひとりの犠牲者としてお願いしときます。

 

追記:どこの道徳の教科書にこれが載ってたのか~というブコメがありましたが、私の学校では全校集会で、校長先生が皆の前でお話しする形でしたので、「オリジナル」ということになります。

こんな悪質なものはたぶん教科書には……ゲフンゲフン

ナニカを「書く」ことの意味

書くこととは

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ブログ論とかにするつもりは毛頭ないが、運よくブログなるものを執筆しているので、ちょっとだけ絡めて書こうと思う。

 

まずは問うてみよう。

 

みなさんは、『書く』ことに対し、どんな感情を抱いていますか。

 

書くことが全く嫌い・苦手な人なら、夏休み……8月31日……徹夜……読書感想文……等のコトバが頭を巡り、脳が「負のプライミング効果!」と叫ばんばかりの勢いで、一気にトラウマを蘇らせるだろう。

もしくは、いつまで経っても埋まらない「将来の夢」作文とにらめっこしているうちに、悔しくなって悲しくなって、作文用紙に二つのふやけた円ができたこともあるかもしれない。

 

書くことの卑近さにも関わらず、いや卑近さからなのか?その行為自体がもつ意味について日常で考えることはほとんどないはずだ。あるとすれば、日ごろから何かを書いている人、書いて飯を食ってる人、書くのが楽しい人、ぐらいか。

 

「書く」とは何か

大前段。まず「書くって一体何なんだろう」と考えてみよう。

普段考えないからこそ、こういう思考は物珍しく、日常の些事で乾きかけた心に、脳に水を与えるものに違いないと、私は信じている。

それはきっと、「名前をつけること」なんじゃないかな、と思う。

道端の石ころに、通りがかる野良犬に、飲み捨てられたドクターペッパーのペットボトルに名前をつける人はいないように、日々浮かんでは消えゆくこと、その一つ一つを思い返して、手に取ってみて、目に見える形にすること。

 

嬉しいことに、こんなことは700年前にとっくに「名前をつけられて」いる。兼好法師が書いた随筆文、徒然草の冒頭はあまりに有名だ。

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。 

 (何もすることがなくて身を持て余すまま、一日中硯に向かって、心に浮かんでは消える雑多なことをだらだら書いていくと、異常なほどに狂おしくなるものだ)

 まあ彼の文章は題名「つれづれ草」に反して、綿密な計画のもとに精緻と典雅極まる文体で書かれたものだから、シロートは真似できないけど。

 

それでも、「頭に浮かんだそれとない何かを書くと、物事がより見えるし、むしろ見えすぎて狂いそう」というある種の真理を700年前に言い当てた人がいるというのは、まことに驚くことだ。

 

価値を認めることが命名

人間にはふつう名前がある。その理由はたぶん「その人の価値を認めているから」だと思う。

価値。差異こそが価値を生むのであり、他のものとそれとを区別する必要に迫られた時、人間は命名する。それが「価値を認める」ことだ。

であれば、ペットに名前をつけるのは、「一般に言うところのイヌ」ではなく、「耳が少し垂れ下がっていて、尻尾が短くて、我が〇〇家に13年いる、他でもないこのイヌ」であることを再認識するためかもしれない。

付けようと思えば、道端の石ころでも、ペットボトルでも、何でも命名できる。

……それをしようと思う人がいない、というだけで。

 

命名することで、その対象と自分との繋がりを確認し、安心したい。

それがきっと命名のモチベーションになっている。

知り合った人の名前をまず尋ねること、赤ちゃんが生まれたら名前をつけること、ペットに名前をつけること、人をおちゃらけたあだ名で呼ぶこと。

 

人間はきっと、命名せずには(名前を知らずには)いられない動物なのだ。

 

それと同じように、頭に浮かんできたいろんな物事に対して、定期的に名前をつけてあげることが必要になると思う。その際に人間は「書く」。

別に「話す」でも良さそうなのに、どうして「書く」なのだろうか。

そこには、話す と 書く の根本的な違いが横たわっている。

 

書くことは瞬間的にはできない

その違いというのは、時間的幅だと思う。

「とっさに話し間違える」ことは誰しもよくあるが、「とっさに書き間違える」ことはできない。普通、書くことというのは話すことよりよっぽど時間を喰う。

これは今も変わらない。

どんなにタイピングが上手かろうと、話すよりも速く打つことはできないだろう。アナログ形式ならなおさら、それこそ速筆という特殊技能でもない限り、普通の人が話すより速く書くことは、まず無理だ。

 

幅というのが、まあちょうどよい。

 

自分の中にある想いをあーでもない、こーでもないと、もだえ苦しみながら文字にしていく作業。リアルタイムの会話とは違い誰が待っているわけでもないから、自分のペースで完成させられる。話すこととは根本的に違う。

「正しく命名する」……言い換えれば、「正しく価値を認める」ために、ちょうどよい幅を持っているのが、書くという行為なのだ。

 

 

ここまでの話をまとめよう。

  • 書くということは命名することである。
  • 命名とは価値を認めることである。
  • 価値を認めるのにちょうどよいのが、「書く」ことだ。

 

 

逆にいえば、日常の様々なものに対し何ら価値を認めていない場合、「書く」という行為は苦痛になってくるだろう。小学生の読書感想文や、無理に書かされる反省文などがそれに値する。

 

消えていく「想い」

人間は忙しいから、ふと考えたことなんて、数時間もすればすぐに忘れる。

自分の人生を揺るがすような大事件、価値観の一変だって、数年経てば見知ったものになるし、下手すれば記憶の地平線の向こうに消えてしまっているかもしれない。

そういう数々の想いが今までの人生にいくつあったのだろう、と考えると、私は恐ろしくなってしまう。

 

自分の想いというのは、まず間違いなく自分のものだ。

でも文字にしておかないと、いつかはそれを忘れる。

じゃあ、忘れ去られた想いは誰のものなのか。自分のものと言ってよいのか。

「自分」というものが記憶でできているなら、忘れ去られた無数の想いでできた自分は、果たして自分なのか。

 

そう考えると怖くなるので、自分の構成物である自分の想い、記憶なんかも、目に見える形で保存しておきたい。

そうやって始めたのが、ブログだし、手記だ。

 最悪、記憶を失っても、過去の自分が書き残した、もしくは現在の自分が書き残すであろう様々なことを読めば、自分がだいたいどういう人物だったのかぐらいは推測がつくはずだ。

 

自分の文章≠自分

書くということは、命名であると同時に、客観化でもある。

ここでいう客観化とは、決して「自分以外の誰かに自分の想いを見せる」というような意味に留まらない。

『文字というカタチを取っている自分の想い』は、自分とは別の存在だ。苦悶の中で産み落とされた赤子のように、または自分の分身のように、自分とは離れている。

 

つまり、自分の中にある想いを、価値あるものとして認め、文字にして吐き出して「命名」することで、自分から独立した存在であると知る……このプロセスを客観化と呼ぶ。

 

主体なき文章は魂を失わない。むしろ逆に自分に対して静かに語りかけてくる。

「この日、お前はこんなことを考えていたんだぞ。それも含めてお前なんだぞ。この時のお前がいるから、今のお前があるんだぞ」

というように。

 

手記やブログを、1年ほど経って読み返すのが好きなのは、この瞬間があるからだと思う。過去の自分がどんなことを考えていたのかなんて全然覚えていないが、文字ならカタチをとどめていられる。

自分から生み出された文字が独立しているぶん、却って「繋がって」いると実感しやすい。

 

文字という媒体を通して、過去の自分が時間を超えた手紙を転送してくれているようで、たまらなく面白い。

 

そこに書くことの可能性を感じ取ったから、ブログを始めた(このブログじゃないけど)のだと、数年前の私の手記には、確かにそう書いてあった。

少々青臭くて恥ずかしいが、私の本音なので、そのまま受け取っていただきたい。

 

 

……まあ、その想いとやらも、事件ですぐに消え去るわけだけどね。

www.chishikiyoku.com

www.chishikiyoku.com

 

 

……というのは置いといて。最初に戻ろう。

 

ほんの少しでもいい、書いてみよう

別にブログの執筆を勧めたいというわけじゃなくて、ただ「何か書いてみよう!」と皆さんにお誘いをしているだけだ。

それは1行の日記でもいい。「8月13日 唐揚げ弁当を食べた」でもいい。

8月13日に唐揚げ弁当が食べたかったのだという『過去の自分』と、繋がりを感じることが目的なのだから。

繋がれるなら手段は何だっていいし、そこに重さもないと思う。

 

価値観が多様化した現代、不安定で流されやすい私たちは、どこかに強固な棒を設置しておいたほうが生きやすい。書くことは、きっと素晴らしい棒になれる。

 

 

という話でした。じじつ、いろいろ辛いこともありますが、過去の自分が今の私を手助けしてくれているのは間違いありません。

どんなに短くてもいいので、まず「書いて」みましょう。

誰に見せなくたって、自分が読めるならそれでいいんです。私の手記の字はかなり汚いので、頑張らないと読めないところもありますが、それで満足してます。

見せたい人はブログとかいうお手軽承認欲求ツールがあるのでどうぞ。結構骨が折れるけど。

 

そうして皆さんが書くことを愛するようになれれば、すごく幸せです。

 

……って、ブクマカーの皆さんなら、毎日100字で自分の想いを書いていらっしゃるようですね。辛いときには読み返してみましょう。

過去のブクマが、きっとあなたに力をくれるはずです。

"株式会社アプリ"のはてブスパム(ステマ)に凄まじい狂気を感じる

先ほどこんな記事に出会った。横のエントリ一覧に表示されていたのだが、

www.asahi.com

 

ふむふむ朝日新聞社か、安心だなんて思っちゃあ、いけない。

 

 

何がすごいかというと、この記事ではない、「この記事へのブクマ」だ。

このブログの主題とは大いに反するが、黙ってみていられないので言及する。

正直言うと許せない。こんなやり方はあまりに卑怯だ。

 

でも焦らず、とりあえず記事から読んでみよう。そうすれば元凶もわかるはずだ。

 

記事内容はいたって普通

観光地の住込み求人サイト「はたらくどっとこむ」を運営する株式会社アプリ(本社:東京都新宿区、代表取締役:庄子 潔)は、(中略)催行を受け持つ訪日旅行ランドオペレーターサービス『J+(ジェイプラス)』を2017年4月よりスタートします。

つまり、求人サイトを運営している『株式会社アプリ』という会社があって、その会社が新しくビジネスを始めるのだと。

 

■自社のリソースを活かしたランドオペレーター旅行業

■旅マエ、旅ナカの旅行客へ向けたアプローチ

■地方への送客で観光業全体を盛り上げる

 

これが見出し。

最後に会社の説明があって終わり。

 

■会社概要
「若者に価値あるCHALLENGE」を企業理念に掲げ、株式会社アプリはリゾート人材サービスを通じて長きにわたり若者のチャレンジを応援してまいりました。(中略)出会いや体験をリゾートだけではなく次のCHALLENGEへと繋げてもらうためのプロジェクト「TSUNAGUCHALLENGE」を展開しています。

 

つまり何かというと、株式会社アプリはもっと頑張るゼ!!ってだけの記事なんだけど、あれれ~?おかしいぞ~?こんな平凡な記事に108もブクマがついてる!

 

無言ブクマ多すぎ問題

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だが、なんとそのうちかなりが無言ブクマ!

 

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私が測ってみたところ(2017年4月9日23時半現在)、その数は74に及ぶ。だいたい68.5%が無言ブクマになる。およそ10人に7人が無言ブクマの計算だ。

 

おお……?意外と普通……?

 

と思った方は鋭い。実は無言ブクマの比としては同カテゴリのほかの記事とそんなに変わらない。

だが、コメント付きのブクマを見てみると、異常さは浮き出てくる。

「うちの会社スゴ~イ!」「楽しみ!」系のコメントと、それらのコメントへの批判を抜いてカウントするとびっくり。

まともに記事そのものに対してコメントしているのは、たったの

108ブクマ中3ブクマだけなのだ。

 

普通の記事でこんなことはあるだろうか……?

いや、ない。あるはずがない。

ホッテントリ入りした他の記事をいくつか見てもわかるが、こんなに『あからさまな』ものはないと言ってよい。

 

実際に見てもらうのが一番早いが。

 

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まともじゃないブクマ(って何だ)は上のような感じ。

 

こ れ は ひ ど い

 

 

「うちの会社が朝日に載った!」というコメントをしているid:skm417さん、id:babashingoさんは、自らステマであることを暴露していく斬新なスタイルで攻めるみたい。一周回って新しいかも。

また、一番のりでコメントしているid:snow1980さんはこのブクマ以前の使用が2014年10月3日であり、どう考えても不自然な使い方。3年前にはてブを使っていた人がこの日たまたまこの記事にあたり、こんな当たり障りもないコメントをするだろうか……?

(する可能性もないわけではないが、限りなく低いだろう……)

 

……と、このように、スパム的なコメントであふれかえっているわけだが、もっとひどいのは手の抜き具合。つまり、バレバレ。

 

普通、ブクマによるステマなどを外注するときには、「はてなブックマークを使い続けている人」にのみ頼むに違いない。(私がするかが問題ではない、私が『するなら』の話だ)

なぜなら、その記事が初ブクマだ~なんて人が多いと、絶対に怪しまれるからだ。

しかしその禁忌というか常識?みたいなのを、株式会社アプリは華麗に破ってくれた。

拍手。

 

なんと、

 

はてなブックマーク - babashingo のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - skm417 のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - tomo1206to のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - nemu_555_zzz のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - loveaustralia のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - mashroom0metori のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - skihrk18 のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - nogao-com0806 のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - yu81385 のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - n743948 のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - maeda_apptli のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - hashitatsu13 のブックマーク - 2017年4月5日

はてなブックマーク - TOMHIRO のブックマーク - 2017年4月6日

 

あまりに多すぎるのでここらで省略するが、上の人たちはほとんどがデフォルトの画像

f:id:zetakun:20170410200217p:plain

を使っており、この記事だけ、または、この記事と、

はてなブックマーク - 宿泊施設の人材派遣会社がインバウンド手配業に参入、取り組み第一弾はタビマエ・タビナカのインドネシア人 | トラベルボイス

のみをブックマークしている。

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これはもう、会社ぐるみでやっているとみられてもおかしくない。

バレバレだし、ほんとしっかりしてくれよ。頼むよ。

 

こんなにバレバレなのにも拘わらず、未だにブクマのページが消されてないのは非常事態だろう。どうして消されないんだ?

 

まあせめて上の108ブクマの記事だけなら99.9%のクロで収まっていたが、その記事にブクマしている人たちが別の『株式会社アプリ記事』にもブックマークしているところを見ると、確定で間違いないと思ってよいだろう。

 

 

答えを言っちゃうと、株式会社アプリは集団で、会社の宣伝のためのブクマを行っている(自明)。

(もちろん競合企業による故意のスパムブクマの可能性も考えられるが、いかんせんやり方が回りくどく、アプリを褒める理由が見当たらない。よって競合企業の可能性は限りなく低い)

 

このやり口には何というか、感心も怒りも通り越して、その狂気への恐ろしささえ感じる。怖いよ、怖い。

株式会社はてなは早く対策してくれ~!!

 

と願うぐらいなら、通報しちゃいましょう。多くの人がやればやるほど、こうした異質な記事は消されやすくなります。

 

通報のやり方

このように、明らかなスパム!ってものを見つけたりした場合は、

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「利用規約違反を通知する」を押して、通知内容から「スパム」を選び、詳細に内容を書き込んで通報。

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これではてなの運営さんが動いてくれることを約束……はできないが、みんなで通報すればその可能性も高くなる。

 

いずれにせよ、このような方法で注目を集めようとする株式会社アプリの暴挙、私は許せない。あまりにひどすぎるよ。というかむしろ逆効果だろ

 

あっ、もしかして、スパムだ~!と私みたいなのが騒ぎ立てるところまで含めて策略?しまった、乗っかってしまった!!

 

……というだけの記事。お読みいただきありがとうございました。

みなさんはどう思われますか?これ、方法として許せる?許せない?

 

 

追記:決して無言ブクマをディスってるわけじゃありません。そもそもブックマークという名前からして、無言ブクマも立派な使い方の一つだと思います。

が、今回のはあまりにひどいです。使い方として、どーみても不適切です。だから記事にしたまでで、一般の方々を罵る意図はございませんので、ご理解ください。

とあるサイトで右クリックしたら「無断転載禁止!」と罵られた件

はい、どーも~ぜーたです(底辺Youtuber並みの自己紹介)

 

いろいろ調べてみると確かにできるらしいんだけど、世の中には「右クリック禁止サイト」ってのがあるのな。それをやってるサイトに出会った。はてなブログを始めるまで全然知らなかった。

 

さすがに晒しあげるのはあまりに失礼だから、「そういうサイトがある前提」で聞いてほしい。

 右クリックというのは、ブラウザを使っている時、サイトのどこかにカーソルを合わせたままマウスの右ボタンを押すことだ。そうするとこのような画面が出てくると思う。

 

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もしくは、記事とか画像みたいな開けるものの上で右クリックをすれば、

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つまり、印刷したり戻ったり再読み込みしたりソースを表示したり新しいタブで開いたり……という便利機能を、右クリックによって実現させられるわけなんだけど、これを禁止してる(右クリックしても、この枠が出てこない)サイトがあるってことだ。

 

右クリック禁止のメリット

私自身ネットに明るくないから、あくまで読者としての1サンプルとして聞いてほしい。

 

右クリック禁止ってそんなにメリットあるか?

 

歌詞サイトとかならともかく、このサイトを右クリック禁止にするメリットというのが、頭ひねってもあまり思い浮かばないんだな。一応3つぐらいはあげられるけど。

 

  • 文章をコピーされない
  • サイトのつくりを模倣されにくい
  • 画像の著作権を守れる

ぐらいか。真ん中の「サイトのつくり」というのは、

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「ページのソースを表示」という部分に関連する。ためしにこのサイトでやってもらいたい。サイトを成すCSSとかHTMLが簡単に・無料で見れるのだ。オシャレなサイトがあれば真似~なんてことも、あわよくば可能である。

「検証」がそのための便利ツール。疑似的にそのサイトのCSS/HTMLをいじってみることができる。

右クリック禁止は、右クリックによるこれらの起動を妨げる。

※キー入力による起動は防げません。ここ注意。

 

文章コピーとか画像云々は言わずもがな。(ウチでは、画像はほとんど「いらすとや」から持ってきてるけど、自作してるのも一部ある)

 

右クリック禁止のデメリット

こう書くと一見メリットしかないわけなんだけども。

当然デメリットもあるだろう。

 

  • 引用しにくい
  • 新しいタブ開けない
  • 画像で検索できない

 

引用しにくい

これけっこう深刻だよね。

いい記事みっけ!この人の記事から引用しよう!と思っても、右クリック禁止だと文章の「コピー」ができない。数行にもわたる場合、いちいち写す気もなくなってしまう。

 

結局引用を諦めたことは数知れず。

 

いやまあその人の記事はっ付ければみんな読みに行くんだろうけど、やっぱり自分のところで紹介したいじゃない。「こんなにいいこと書いてあったよ!」ってのを行数で教えるわけにもいかないし、かといって数行分のソレをわざわざまた入力するのもかったるいし。どうしようもなくなった結果、言及さえやめちゃうと。

……これ、結構損だと思う。

良くも悪くも、文章をコピーできないのは痛い。

 

新しいタブ開けない

完全に個人の感想。別の記事も読みたいけど、こっちを今読んでるからな~!ってとき、私はよく右クリックで「新しいタブ」を選択するようにしている。

こうすれば、今読んでる記事が読み終わったとき、スムーズに移行できるからだ。

Ctrlキーを押しながら開くと一応新しいタブで出てくるが、他にもいっぱいキーボードショートカットがあって、どれがどれかよくわからなくなるから、私は右クリックでやるようにしている。

 

読む気もなんだか失せてしまうのだ。あーあ。

 

画像検索できない

これもなかなか厳しい。オサレなテーマ画像や有名人の画像を見て、「この画像いいな、どこのサイトのだろう?」「この有名人、なんて名前なんだろう?」と思うことがある。

そういうときに便利なのが「画像をGoogleで検索」という機能だ。これを押すだけでタブが勝手に開いて、その写真が何・誰という名前なのか勝手に教えてくれる。これができないのはかなり痛い。

……というか、ネットに有名人の顔写真を無断で載せてるとしたら、右クリック禁止は虫が良すぎないか。自分で撮った写真みたいになってるよね、それ。

 

メリットを完全に打ち消す弱点が!

デメリットよりメリットのほうが強いし、別に右クリック禁止でもいいんじゃね?と思われた方は結構多いと思うが、そうじゃないんだなぁ。実は。

 

というのも、右クリック禁止を回避できてしまうウラワザがこの世にあるからだ。常識かもしれないけど。

 

この右クリック禁止というプログラムはJavascriptというプログラミング言語によって動いていて、だいたいのブラウザでは常にオンか、常にオフだ。だいたいは常にオン。

オフにしたらサイトの一部がうまく表示されなかったりするから、普通はオンになってるはず。

 

……さて。

 

これをオフにしてみよう。するとどうだろう。

右クリック禁止が働かない!

そりゃあ当然だ。Javascriptをオフにすれば、それで動くプログラムも無効になるのは当然。この状態では画像もソースも何もかも見放題、根本的な解決には何一つなっていないのである。

フランスが敷いたまさに「防衛線」であるマジノ線を、ドイツ軍が横から悠々とすり抜けるさまが思い浮かぶ。

 

Chromeを使っている方なら、「ボタン一つでjavascriptをオンにしたりオフにしたりする」という拡張機能もある(後述)から、皆さんが本気を出せばソースも画像も普通に見れることになる。

 

ということは……。

右クリックはいくばくかの人を不快にするだけで、コピー防止にはあまり役立っていないと結論づけられてしまう。

文章コピーも画像無断転載もやってどーぞ!とは思わないが、結局そういう風に対策してもムダになっちゃってるように思えるのだ。

 

非常に個人的な意見になるが、ネットに何かを公開するということは、公道に何かを置くのと同じだ。それがエロだろうがグロだろうがお構いなし、通りがかる人は見ていくし寄ってくる。たまーに、ぶつかる。

それを「見るな触るな」というほうが、どうかしていると思われるが……。自ら公開しといて矛盾していないか。(ただし著作権云々の問題……カメラマンの写真などは、この限りでない)

 

 

だが、世の中にはもっとすごいサイトがあった。

 

無断転載禁止!の文字

たまーに見るのが右クリックの際「右クリック禁止!」という文字が現れるサイトだ。これをされるとちょっとだけイラっと来る。

 

だがもっとすごかったのはコレ。

右クリックした際、「無断転載禁止!」の文字が現れたサイトだ。

そのサイトはすぐにPersonal Blocklistでブロック入りを果たした。とてもじゃないけど続きを読みたくなくなった。

 

この人は、読みに来る人に対して何の配慮もないのだろうか。まあもちろん無料で勝手に見に来てるのはこっちだけど、限度ってものがないのか。

盗みもしないうちから他人をドロボー呼ばわりするその傲慢さというか思い違いというか……

 

というか、私には右クリック=無断転載 になる意味がわからない。シャレオツなデザインのCSSを見たくなっただけかもしれないし、画像を検索したくなっただけかもしれない。タブ開きたくなっただけかもしれない。

右クリックは本来便利機能のはずで、「右クリックした人間全員が画像やサイトを無断保存して去っていく」みたいな保証はないはずだ。

 

それなのに、どうして読みに来た人に馬糞を投げつけるようなまねをするのか。

店に入ってエコバッグを漁っていたら、万引き認定されたような気持ちだ。

 

自衛のつもりだが肝心の読者に嫌われてしまっている例といえるだろう。そしてサイト設計者たるもの、数千数万の数字の裏には一人ひとり、心を持った人間がいることを忘れるべきではないと思う。

 

というわけで、今日の結論はコレ。

右クリックはJavascriptをオフにするだけで簡単に回避できるので、「個人的には」メリットがあまり見当たらない。(やるもやらぬも当然自由だし、やりたい人はやってどうぞ……)

ただ「無断転載禁止!」みたいなメッセージは腹立つだけなのでやめたほうがいいんじゃないかな。読者からのおねがいです。

 

 

 

追記:Personal Blocklistはリテラシーが高くて沸点が低い方々にオススメの拡張機能です。これがあるだけで快適なブラウジングができます。

Personal Blocklist (by Google) - Chrome Web Store

 

それから、Javascriptを一発でオンにしたりオフにしたりという拡張機能はこちら。

jsoff - Chrome Web Store

悪用厳禁です。当サイトでは画像の無断転載、ソースの完全コピー、その他犯罪行為を助長する意図でこれを紹介しているわけではありません。

自分のサイトがJavascriptなしでどう表示されるか?などを調べるのに便利なので、あって損はないかと思います。

 

このサイトでは当分1年は右クリック禁止にするつもりはないので、引用でもなんでも自由にどうぞ。さすがに完全コピーされたらキレますが。

 

それでは。

作り手の「じゃあお前が作れって話でしょ」は暴論になりやすい

ほならね理論について思うこと

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ニコニコ動画をたまに見るが、この前見たゲームの動画はひどかった。私は既プレイなので投稿者の巧さがありありとわかるのだが、そこに文句をつけて、やれ「こいつ下手だなw」やれ「なんでそこで死ぬんだよww」だの言う人もいる。

お前らは投稿者に文句をつけられるほど偉いのかよと。

お前らは投稿者より巧いのかよと。

 

持ち前の短気さで「じゃあお前がやってみろよ」とコメント投稿しかけたが、手を止めてふと考えた結果、やっぱり投稿しないことに決めた。

 

創作物に対して必ずと言ってよいほどつく定型詩?常套句?が「そんなに文句を言うならお前が作れ」である。

そしてこのことばについて避けて通れない議論が、「コレは正論か、暴論か」なのだが(某巨大掲示板やニコニコ大百科のコメント欄を覗いてみよう)、問題を分解せずに一緒くたに正論だ暴論だ話してても何も始まらないので、切り分けてみる。

 

まず、これを耳にする場面はおよそ3つ。誰が誰に言ったかで分ける。

 

1、作り手が作り手に言う場合

2、作り手が素人に言う場合

3、素人が素人に言う場合 

 

このそれぞれについて、例を挙げていこう。

 

作り手が作り手に言う場合

漫画家Aが別の漫画家Bのシナリオに理性的なマイナス評価をし、それに切れたため「じゃあお前が書いてみろよ!」と言ったケースだろうか。

 

ここで注意するべきことは、両者が同じ職業、同じ肩書きであることである。

 

松本人志がお笑いや映画に対して批判するのは認められよう(彼の映画の評判は置いといて)。だがそれ以外の分野……一般に彼が作り手として関与していないと思われる分野についてプロであるかのように批判するのはあまり認められないだろう。

なぜかといえば彼自身が実際にお笑いや映画製作に携わっていて、そのノウハウや業界の常識などにある程度精通していると考えられるからである。

(じっさいには彼のことばは神格化……?されていて、門外漢の分野に口出ししてもなぜか正しい扱いを受けていることがあるが)

 

 同じ職業なのだから、「お前が作れ」と言われて、実際に作って皆さんの評価を仰ぐことは一応可能だ。

 これ大事。

 

作り手が素人に言う場合

素人なんて言うとトゲが立つから、「その業界にほとんど詳しくない人」とでもしておこう。作り手の対義語がなかったので便宜上こう表現しているだけで、バカにする意図は全くない。

 

私は料理の素人だし、焼酎の素人だし、安眠枕の素人だ。

 

この場合、素人は作り手と同じ情報や常識を共有する必要がない

まあ早い話、素人側は土俵の外から何でも言える。

それに対して、それを利用して作り手が「(そういう批判の仕方は卑怯だぞ を多分に含むニュアンスで)批判するならお前が作れ」と言うことも可能ではある。まず自分と同じ土俵に立ってから言ってみろや、と。

 

素人が素人に言う場合

冒頭のような動画コメントの例がそれに該当する。

匿名特有の不毛なバトルだ。

動画に対し「こいつ下手だわ」という批判が来ると、ほぼ必ず「じゃあお前が作れ」というコメントが反論として飛ぶ。

そうして今度はそれが暴論だの正論だの。

君たち黙って動画見ようよ

なんて思うのももはや茶飯事。

※コメントした人が投稿者だったり、精通してる人という可能性も大いに考えられるが、それを特定することができないので素人ということにしておく。 

 

 

こういう風に分けたのは当然議論をしやすくするためだが、ここでは特に2番「作り手が素人に言う場合」というのを考えてみよう。

 

というのも、2番のケースが最も暴論になってしまいやすく、危険と思ったからだ。

それがなぜなのか説明していく。というか以下、2番のケースにのみ的を絞って考えているので、1番や3番には応用が利かないと思う。

 

立場の非対称性

批判する人と「批判するならお前が作れ」という人の立場を考えてみよう。

1番はどうか。同じ専門分野の人たちだから、対等であると考えられる。

3番も対等だ。素人どうしで言っているだけなのだから。

 

ところが2番は違う。

2番だけ、立場に非対称性がある。さきほど土俵の外から云々という表現をしたがまさにソレ。「土俵」という、明確に区切られた線が意識される。

 

雑な例えをすれば、1番は土俵の中で戦いあってる感じ、3番は土俵の外で殴り合ってる感じだが、2番は土俵の中のおすもうさんが観客に向かって叫んでるイメージ。おすもうさんをディスってはないですよ。

 

その線とは何か。土俵とは何か。

当然、何かを作っているか、作っていないか、という違いだ。であるからこそ両者が「作り手」と「素人」という二つの呼び方で分けられるのであり、線がなければこの命名区分も存在しえないはずである。

 

そして、作り手(内側の人間)が素人(外側の人間)に対し「批判するならお前が作れ」と言ってしまえば、それと同時に二つのことが明確に認識される。

 

一つ、両者の立場の差を覆しようがないこと。

二つ、立場の差が優位性の有無になっていること。

 

一つ目は自明である。作り手がこう言うのは元はといえば「俺はものを作っている、お前はものを作っていない」という意識の差より生まれるものだ。それを言語化したにすぎない。

二つ目はかなりひねくれた解釈になるが、これを発する作り手から、暗に「俺とお前では(ものを作っている)俺のほうが偉い」とでも言いたげな雰囲気が見え隠れする場合がする。

 

つまり、作り手側はまず、作り手と素人のあいだの差を利用する。相手が「作れないことをわかっていながら」口にすることで、自分の作品への批判を逸らそうとしている意図が見え隠れする(が、二つ目のメッセージの強烈さによりこちらに目が向くことはあまりない)。

そして二つ目の意識でみんなからの強烈な反感を買うことがある。

「お前が作ってみろ」発言の裏側にある作り手側の傲慢さというか、「俺のほうが偉いんだから素人は黙っとけよ」という態度が見透かされてしまう。見透かされるというか、勝手にそう決めつけられる。

たとえそのつもりがなかったとしても勝手にそう思われてしまうのだから怖い。

 

(あまり実感できない方は、アンチの多い中堅Youtuber の動画を見てみるといいかもしれない。「作ってる俺が偉いんだからアンチは下、黙っとけ」みたいな、わけわからん論理展開をしている場合がある。晒しあげはしたくないので自分でお願いします……)

 

 

「文句があるならお前が作れ」論に賛否両論あるのはこうした原因によるものと考えられる。

 

私自身、この理屈については反対だ。特に一つ目、自分の作品への批判をその作品を前提にしない論理……つまり立場の差で以って反論するという方法が気にくわないからである。極端にいえば作り手のとる「逃げの一手」になりうると思う。

批判への批判をするなら、ちゃんと作品内部の解釈とかで完結すべきだ!と、勝手に考えてます。

 

まあここらへんは個人の感性によるところが大きいが、論理の妥当性としては「正論」と崇められるほど便利なものでもなかろう。使いたくはなるが、むしろ一歩間違えれば暴論といって叩かれるような……魅惑的な危うさを孕んだもののように思われる。

 

例外もあり!

なにごとにも例外はある。

 

「こんなの俺でも作れる」と批判者が言った場合。

これに対する「じゃあお前が作れ」は確かに正しい。いちおう、論理としては。

 

もう一つ。「良さ、上手さが客観的に観測できるもの」の場合。

例えばカーレース系のゲームで、1周するタイムを競うというような数量化できるものが基準であった場合は、「じゃあお前がやれ」は正しくなる。もちろん世の中にはそんな創作物のほうが少ないが。

この場合、「俺のほうが上手い」と言った人は、動画を実際に投稿してみればいいだけの話だ。

 

駄目押し。批判が批判じゃない場合。

今までの批判は全部建設的な批判を前提にしてきたが、世の中良質なものばかりではない。

どちらかというとケチをつけただけの奴、主観ありきで叩いてる奴、ただの人格否定と化した奴などが溢れかえって、正しいとでも言わんばかりの顔をしている。

これに対し、ヤケクソ気味に「じゃあお前が作れー!!」と言いたくなる気持ちは120%共感できる。(例外に入ってるが正しいとは言ってない)

 

まあただ「時として正論になりうるね~」という話であり、基本的には暴論か、それに一歩近いものだと思ってもらって構わない。ましてや何もかも論破できる正しい理屈などではないだろう。

 

論理的な正しさが評価されるとは限らない

今まで論理の妥当性によって議論を進めてきたが、実は皆さんもお分かりのとおり、世の中は「論理的に正しいこと=一般的に正しいこと」ではない。むしろ逆かよ~?という例もたくさんある。

もしかすると、じゃあお前が作れ理論もその一つかもしれない。

 

つまり、いくらこの反論が論理的に正しくて筋が通っていたとしても、言われたほうはやはりカチンとくるし、周りもいい気持ちにはならない。

批判しといて身勝手な!という気もするが、人間そんなもんだよ。たぶん。

むしろ正論を言われるとヒトは逆上する。

やっかいだが、そんなものだ。

 

そしてこれまた理不尽な話だが、ものを作るというのはそういうことだろう。本人の名誉や信頼に傷がつかない限り、手厳しい批判もゴクリと飲み込み、「一案として、今後の参考にさせていただきます」ぐらい言えるのが立派なんじゃないかなと思う。私は言えないと思うけど。

私も辛辣ブクマカーさん方々のブクマに心折れそうです

 

本来作り手側が何かを作る権利を与えられているのと同じぐらい、受け取る方はそれを見て何を感じても何を言っても良い権利を持っている。(作り手側の名誉や信用を著しく損なわないという限度はあるが)

 

批判のたびに「お前が作れー!お前が作れー!」なんてなまはげみたく言ってたらキリないし、そうやって異物とやらを排除してつくった囲いはあまり作り手を成長させてくれない。賛同者だけ集めたグループは手軽な承認欲求の充足こそもたらしてくれるが、創作物への改善点は何も述べてくれやしないのだから、そんなに良いものでもない……気がする。気持ちはわかるけどね。

 

 

というこのエントリーが数年後自分の身に壮大なブーメランになって突き刺さらないかは心配だが、とりあえず自戒の念を込めて書いた。みなさんの参考になると幸いです。

 

 

 

追記:大見出しの「ほならね理論」ですが、これはとあるyoutuberの発言がもとになってできたことばです。まあ意味は「文句があるならお前が作れ」と同じですが、あまりに端的に表せているので代替語っぽくなってます。

晒しあげるのもあまりにかわいそうなので、詳しくは下の記事参照のこと。

ほならね理論とは (ホナラネリロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

それでは。

ツイッターで複アカウントで宣伝してる英語商材?に引っかかってみた

注:エイプリルフールネタじゃなくて、ガチです。

 

 

今日も愚痴らせて。全然ブログの題名と関係ないけど。

 

twitterやってるんだけど、たまーに変なDMが来るわけ。

「1日15分で月30万円を手に入れた驚きの方法が知りたい方はこちらに!」的な変なアカウントとか、分裂した〇〇くんとかね。(本人の名誉のため名前は非公開にしときます)

もちろん返信しないようにはしてるんだけど、分裂した〇〇くんに関して言えば全然意図が読めなくて不気味なので、こうやって記事にした次第。ブラックな手口に詳しい専門家の方からアドバイスなどあるとすごく助かります。

 

分裂した〇〇くんとは?

そもそも分裂した〇〇くんって何だよって思ってる方。

それはね、こういうこと。

 

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(本人のプライバシーのため名前とidは消してますが、以下全部名前が同じです)

 

現在20歳。東京住み。から始まる紹介文。

 

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あれ?全く同じ文面だ。〇〇くん。

2人目ゲットだぜ!!

 

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あのさぁ……

 

彼はIDを変えながら、「〇〇」「〇〇〇(ひらがな)」と名前を使い分けて、みんなを爆撃フォローしてるみたい。自分の名前の名字なんだろうな。偽名じゃなければ。

 

「みたい」というのは又聞きで、私が〇〇くん問題に悩んでるとき、他のブロガーさんも同じことをおっしゃっていたからだ。

きっと、私の界隈のブロガーたちを爆撃フォローしてるんだろう。(その割に、フォロー数よりフォロワー数のほうが多いのは気になるけど、まあ工面すればいくらでもできるからね)

 

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ビジネスってなんか、怖いイメージとか、汚いイメージとかあるけど、実際にはそんなことはないし、むしろもっと素晴らしいもの。

 

……お前のせいだよ!!

 

これに限らず、同じような文面を持ったアカウントを何個も作って、爆撃フォローして、変な詐欺まがいのDMを送ってくる人はわんさかいるけど、怖いよ。

それが逆効果なの、早く気付こうよ。どーみたって怪しいもん。

 

彼(ら?)からのDM 

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本当はこういうDMってあまり晒しあげというか、公の場で見せちゃいけないものなんだけど、たぶんこの人は他の人にも同じ内容のを送り続けてるらしい(他のブロガーさんがスクショで上げておられたものと同じだった)ので、いいかな~と思う。だめなら消します。

 

そしてもう一人の〇〇くんから来たのがこちら。

 

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嫌です。

 

碌に自己紹介もせずズカズカ英語の話を一方的に持ち掛けてくる。

絶対無差別的にやってるだろ……という内容。せめて互いに名前の紹介から始めるとかしましょうよ。〇〇くん。こっちはあなたが本当に20歳で慶應生かどうかも保証できないんだよ。

 

さすがに彼の"リンク"とやらを晒すのは気が引けるのでやめておくけど、どうやらサブドメインを見るに"xsrv"つまりエックスサーバーのところにサイトがあるらしい。うーん?

 

リンク先はこんな感じ。

 

今回はあなたのために、

PDF56ページ分のバイリンガルになるための第一歩となる、究極かつ最強のノウハウ

を配布することに決定しました!!!

らしいですよ、皆さん。20名限定で残り少ないようなので急ぎましょう。あなたのために、って。無差別爆撃フォローしかけてフォローし返した人にスパムDM送ってるあなたが言える言葉じゃないでしょ。

 

ページはずーっと、下のような感じのことがズラズラと並べ立ててある。まあよくある英語教材みたいな奴かな。めんどくさくなってすっ飛ばしたけど、

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たまに間違ってるところがあって面白い。

 

さっき嫌ですとは言ってしまったけど……。

確かに英語喋れたらかっこよさそうなので、今回はちょっと引っかかってみることにした。皆さんは怪しいのがあっても絶対に引っかからないようにしましょう。引っ掛かる際は個人情報なんか絶対に明かさないように。

 

完全無料なのを確認して……

 

中身は普通の英語教材?

名前と捨てメールアドレスを入力するとメールが届く。

「無料プレゼント」、ならびに
「英語習得のためのメールマガジン」のご登録ありがとうございました!

無料でゲットしたのが"Master of Native English"というpdf形式の教材だけど、最初のほうに著作権の但し書きがあって、「この内容は流用したり転載したり転売したり複製したりするなよ~」ってことだったので、内容の公開は控えることにする。

 

が、大筋ぐらいはいいでしょ。内容のコピーじゃないし。

「日本人が日本語を学ぶみたいに自然に英語を学べ!」てな感じ。まあ何だ、どこかの書店にも普通にありそうな、……というかどこかで確かに見たような中身だった。

これのどこに著作権があるんだ……

 

まだメルマガが来てないから何とも言えないけど、これを本当に無料で配って歩いているのだとしたら、それは逆に怖い。意図が全然つかめないんだもの。

確かに途中で「こういう教材(本)を使えばいいんじゃない?」って提案はあったけど、商品のページに直接飛ばすような作りではなかったし、最初から最後まで本当に「ネイティブになるための方法論」がちゃんと書いてあって、期待外れというか考えが読めないというか。善意なのかもしれないけどさ。

 

街中で聖書配って回ってるおばあさんと同じ、ボランティア精神?布教活動?なんだろうか。……とても真似できないよ。

 

それとこれとは別

まあ「本当に英語ができるようになりたいなら、下の教材買ってね!15万」みたいなアカラサマなのじゃなくて、ちゃんと具体的に方法が書いてあったのはちょっとだけ好感がもてるけど、やっぱりそれとこれとは別。

 

複垢いっぱいつくって同じ名前で同じ感じのことbotみたくツイートしてるし、DMの送り方も「いかにも」な感じだし、彼が本当に未来と自由ある慶應生で、みんなに英語を啓蒙したいなら、やり方を改めたらどう?と一言アドバイスしたい。まあこんなブログ読んでないだろうけど

 

本当にボランティア精神でみんなを助けたくてやってるのだとしても、この方法は逆効果にしかならないと思う。端的に言えば、「すごく怪しいがゆえに敬遠されそう」なやり方。

 

まあ、世の中には名前もIDも全然ばらばら、まるで別人がやってます!という態度で振る舞う(限りなく同一人物に近い)人たちもいるから、まだ名前で見分けがつく分良心的でもあるのかなぁ、と思う。

それでも、同じ名前を使いまわして同じ人を何回もフォローすると、された方からすれば怪しさしか感じないわけで。「あれ?コイツ前にも見たような……やっぱりアンタやんけ!」と。もうちょっとクリーンな方法はないのかなぁ。

 

それから、私あてに情報商材の紹介などのDMを送られても、もう二度と返信は致しませんのでご了承ください。スパマーの皆さま。

ネタになりそうだから返信も手か

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まだ返信はこない……

 

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なんとなく怪しい人ってたくさんいますけど、そういう人こそ、超普通の人だったりしますし、怪しいって思うのは、自分の基準にハマってないだけで、全く悪い人ではないですよ。寧ろ自分にはないものをもっている、貴重な人間かもしれません。

自己紹介に見せかけた名言だ……!

 

今日は短いですがこれにてお開き。メルマガなどで進展があったら報告します。

 

 

追記:

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届いたメールに来てた文面というか宣伝。

もしかしたら英語のほうじゃなくてこっちを宣伝したかったのかな?と思いクリックしたが、上のほうはURLが間違っている可能性が~云々、下のほうは情報商材の販売だったけど、公開終了してるみたいだった。

やっぱり意味不明。

※メールのリンクは不用意に踏まないようにしましょう

 

もういっちょ。2017年3月31日22時現在、名前が一部「〇〇〇(カタカナ)」「〇ー〇〇〇〇(カタカナ)」に変わってました。

今度は自分の名前じゃないみたい。

もっと意味不明だ……。

「論理的思考」は万能薬ではないかも【その2】

前回のおさらい!

www.chishikiyoku.com

論理ってのは私たちのメッチャ身近にあるよ!

だから論理ってのは定義するのが難しいけど、強いて言うなら「議論の筋道」だよ!

じゃあ筋道の絶対的正しさを担保するものはあるかな?

 

というところが前回までだった。

 

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絶対的な正しさ?

つまり、今回の議題はコレ!

「論理的な正しさを測る絶対的な方法はあるだろうか?」と。

ちょっと考えてみよう。

 

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